HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報529号(2010年5月 6日)

教養学部報

第529号 外部公開

日独共同大学院プログラム 主体としての市民とは何か
――日独共同大学院プログラムの議論から――

ゲジーネ・フォリヤンティ=ヨースト

B-2-2-01.jpg「改革の土台には、地域に住む住民の皆さんに、自らの暮らす町や村の未来に対する責任を持っていだたくという、住民主体の新しい発想があります」
これは鳩山首相の所信表明演説の一節だが、ここでいう「住民主体」は何を意味するのだろうか。この問いは、東京大学大学院総合文化研究科とハレ大学との間で行われている「日独共同大学院プログラム」の春季セミナー・国際シンポジウム「日独比較研究の可能性―― 市民社会の観点から」(二○一○年三月一二~三日、十八号館ホール他)でも取り上げられた。住民(市民)に参加を求める新政権のアピールは、日本における市民と市民社会の概念、市民と国家の関係、公共空間の形成に深く関わっている。

主体としての市民
主体としての市民という考え方は何も目新しいものではない。市民は有権者として政治決定に参加し、住民投票や直接請求によって自治体の政策にも関与す る。ただし鳩山は住民の責任という言い方をしている。ドイツ政府も何年も前から身近な生活世界の形成に市民が関与することを求めてきた。しかしドイツで は、住民ではなく市民(Bürger)という概念が使われる。これは、政治的主権者、市民権の保持者、市民文化の担い手という意味をもつ。ドイツから見て 興味深い問題は、鳩山のいう住民がドイツ語の市民と同義か、それとも政治主体としての意味合いをもたない概念なのかという点である。
地域住民を自治体の公共サービスに組み込むこと自体は珍しくはない。歳入減少により、社会福祉、教育、文化面で自治体の行動が制約され、強い改革の圧力にさらされているのは日本もドイツも同じである。市民は自治体のパートナーとなり、その役割は拡大しようとしている。

B-2-2-02.jpg公共サービスの担い手としての市民
市民参加の呼びかけには二つの側面がある。
ひとつは新自由主義の変形としての側面である。政府は役割を縮小してその一部を市民に委ね、市民はボランティアとしてそれに当たる。ここには国民生活にかかる公的支出を抑えようとする政府の思惑があるが、問題はそのための能力と意志が市民の側にあるかである。
市民参加が期待される分野として老人介護、子どもの保育、失業者や外国人の支援がある。朝日新聞の社説(二〇一〇年三月十六日)によれば、鳩山政権は公 立学校の算数や国語の授業への協力も求めている。もちろん従来の国家の領域に市民がボランティアとして参加するためには、時間的、経済的な余裕、知識と経 験、それに政府に期待せず自ら参加する意志など様々な条件がある。

市民参加が満足すべき成果をもたらすとは限らない。民間の企業経営手法を応用するニュー・パブリック・マネジメントの議論によると、市民活動の効率性に は限界がある。ドイツでも、市民参加は業者委託よりも効率が悪いとの調査結果がある。しかし地域に暮らす市民が問題に精通し、ピンポイントで問題を解決す ることもできるし、市民による市民のためのサービスの評価はいずれ上昇するだろう。それでも残るのが、ボランティアとしての市民は誰に責任を負うかという 問いである。自治体に対してか。市民あるいは自分に対してか。また活動の善し悪しは誰が何を基準に査定するのか。

共同決定者としての市民
主体としての市民のもうひとつの側面は、自発的活動に関する計画と決定に市民の参加が求められるということである。これは市民が活動に責任を負う前提と なる。現在、日独双方で政治的意思決定に市民が参加するため、行政・市民・地域団体・地方政治家などによる新たな議論の場が自治体レベルで生まれており、 これらは「新しい公共」の一角を構成するといえるだろう。しかし、最終的な決定を下すのは議会である。この点を強調するのは、市民活動の主たる担い手がド イツでは教養のある富裕な中間層、日本では四〇~六〇代の女性と退職後の男性に限られ、住民全体の意見を代表するにいたっていないからである。やはり住民 が投票で選んだ議会が重要である。
さらに日本の市会議員は、ドイツと異なり、職業政治家である。これは、市議会が市民の協力を必要とする点で相互の協力関係にとって好都合だが、市議が再選に汲々とするあまり独自の新しい政策構想をなおざりにする危険もはらんでいる。

規範形成と市民
最後に取り上げたい論点は、市民が自治体の規範をどのように作っていくかである。「市民のすることは行政のすることよりもよい」というのは危険な思い込 みである。個々の市民のもつ価値観のすべてが公共の福祉に適うとは限らない。誰が市民活動を規範面でチェックするのか。市民がA国からの移民ばかり気にか けてB国出身者に見向きもしないとすれば誰が介入するのか。ボランティアの市民が学校で子どもたちに伝えるべき価値観は何で、それをどう決めるのか。阪神 淡路大震災直後の暴力団関係者による被災者支援のように、反社会的組織の活動にも公共の福祉に適うものはあるのか。国家財政の危機の解決策として「市民主 体」が叫ばれるとき、こうした様々な問題に直面するのは日本だけではないのである。

(地域文化研究専攻・客員教授、ハレ大学教授)

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