HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報531号(2010年7月 7日)

教養学部報

第531号 外部公開

〈本の棚〉 柴田寿子著 『リベラル・ デモクラシーと神権政治
――スピノザからレオ・ シュトラウスまで』

増田一夫

C-3-2.jpgリベラル・デモクラシーは、人類にとっての最終的な、その彼方に他の体制を考える余地のない政治体制なのか。スピノザの専門家による本書は、この問いに対して懐疑的に答えている。

ベルリンの壁が崩壊した一九八九年、フランシス・フクヤマはリベラル・デモクラシーの勝利と「歴史の終わり」を宣告した。だが、その後も世界が歩みを止 めることはなく、不安定さと紛争の数とが増大していった。「文明の衝突」論に与せずとも、そうした推移に「宗教」が関与していたことは否定するのはむずか しい。啓蒙主義から二世紀あまり、世界の脱呪術化が語られてから約一世紀、宗教を私事化し、政教分離と信教の自由を実現したはずのリベラル・デモクラシー にとって、宗教は依然として未解決の問題だったのである。

リベラル・デモクラシーの現実とは何か。近年顕著になってきたのは、寡頭政の台頭、メディアによる情報操作、利益団体による密室政治である。旗手を自負 するアメリカでは、それに帝国的な暴力が加わる。リベラリズムの名のもとに進むデモクラシーの侵食。それでも各国はその体制の正当性を疑わず、それを貫徹 し、強制さえしようとする。それに呼応して発動されるのがイスラーム原理主義の暴力だと著者は言う。

著者は、この事態を、ヴァイマール共和国が宗教問題(ユダヤ人問題)で示した「モダニティの危機と憂鬱」が、グローバルなレベルで再現されたものとして 捉える。一九二〇-三〇年代、デモクラシーの限界が明らかになるなかで、何人もの論客がスピノザに想を求めた。たとえば、シュトラウスは『神学政治論』に 深い関心を抱き、シュミットは「能産的自然」から「構成的権力論」を導出している。そして今日、亡命したユダヤ人であるシュトラウスが新保守主義(ネオコ ン)の思想的根拠とされ、反ユダヤ的でナチスの「桂冠法学者」とされるシュミットがヨーロッパの左翼思想家たちによって大いに参照されている。スピノザの 視点からは、このような遺産相続の奇妙さと、大戦間と今日のあいだの不思議な符合がいやでも見えてくるのである。

一七世紀オランダの改宗ユダヤ人家系に生まれ、ユダヤ人共同体からも破門されて同時代でも孤立し、またデカルト、カント、ヘーゲル、ハイデガーの系譜に も属さないために、孤高の思想家のイメージが強いスピノザ。しかし本書は、先の二人の思想家以外にも、ホッブズ、ルソー、カント、マルクス、ポストモダン 神学との関係、そして同化/ユダヤ主義、理性/啓示、無神論/宗教一般をめぐってスピノザが取った立場を通じて、その立ち位置の戦略的重要性を再認識させ てくれる。

さらに著者の真骨頂が発揮されるのは、スピノザの遺産がいかに相続されたかを分析するときだろう。共存を最も許容する体制として共にリベラル・デモクラ シーを評価するスピノザとシュトラウスは、無神論者とユダヤ教徒というふうに信条を異にする。また、「能産的自然」を「構成的権力」へとずらしてゆくシュ ミットのしぐさにも明快な光があてられる。何世紀にも層をなす言説の厚みに分け入り、リベラル・デモクラシーと神権政治の諸問題を扱う手つきは、著者が他 の文章で言うように、政治思想史が「ロマンに溢れた面白い学問」であることを存分に立証するものである。

スピノザ自身は、神学政治論に対する解答を、独特の理解がほどこされたヘブライ神政国家論に見いだしている。しかし詳細については、同じ著者による『スピノザの政治思想――デモクラシーのもうひとつの可能性』(未來社、二〇〇〇年)に送り返さざるをえない。

本学で一六年にわたり教育・研究活動をおこなった著者は、本書の完成を見ることなく、二〇〇九年二月に逝去した。その前月に記された「あとがき」には、 ひとこと「難病であることがわかった」とのみ述べられている。自由人は死ではなく生こそを省察すべしと述べたスピノザに、どこまでも忠実な態度である。生 への希望は、「これからも共にあり続けるという思いと願いをこめて」という言葉にも溢れている。直接には夫君と子息に宛てられた言葉。しかしそれは、潜在 的にすべての読者に宛てられたものでもあるだろう。

抑制された語り口で大胆な視野を切り開く本書は、著者の願い通り、読者と「共にあり続ける」に違いない。そう確信させる一冊である。 〈東京大学出版会、三五〇〇円〉

(地域文化研究専攻/フランス語・イタリア語)

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