HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報532号(2010年10月 6日)

教養学部報

第532号 外部公開

〈時に沿って〉に替えて ~明日の神話――第三次世界内戦を振り返って

松本眞

二〇三〇年というこの節目の年に、第三次世界内戦を振り返りたい。その名が示す通り、前二回と今回の世界大戦の大きな違いは、それが内戦としてはじまり、それも当時の先進国での諸階級間での内戦が大半を占める点である。これらの先駆は、二〇世紀の終わりからみられる。たとえば日本では、生活保護世帯の切り捨て、高齢者に高負担な後期高齢者保険、当時「ニート」と呼ばれた非労働青年に対する処罰的措置など、さまざまな集団が「いじめ」の対象となった。地方分権といいながら税収は都市に集中し、農村は貧困と過疎化が進んだ。

農村を守るなら人的資源を割いて医療・福祉・農林水産業等を支える必要があったのに、「全ての家庭にブロードバンドを」のスローガンのもと、高齢過疎山間地へ光ファイバーを引くことや、非現実的な「地域特産品」開発のために、特定企業へと税金は流れ、消滅した。「環境を守る」と称して一部企業に「エコポイント、エコカー減税」の形で税金が投入されたのと同じ構造であり、むしろ地域がすでに備えていた通信手段・生産品・共同体を破壊し、真摯に環境保護活動を行っていた団体を破たんさせた。税金を使って、既存の有用な社会機構を破壊し、引き継ぐこともなかった。「高速道路無料化」による公共交通機関破たんなども類例である。

当時の先進国・新興国では「一人が消費できるのは、一人が生産した分。それ以上は搾取。」という当然の算術がわかっていなかった。消費者は無知全能な「神」として君臨し、安価なものばかりが売れ、賃金は抑えられ、消費者に貢献しないものは「不要なもの」として排除された。学問の世界にも(もともとある自然なものでない)競争原理が政策的に導入され、「社会のニーズに答える研究」以外は「仕分け」で排除されていった。かつて、ごく少数の貴族が大勢の庶民から搾取をした時代は長く続いたが、今回の「多数の消費者が多数の庶民から搾取をして貴族生活をしよう」という時代は長く続かなかった。少子化、環境破壊、資源枯渇、新興国の当然の消費増大、それ自身が破たんに向かうものだったが、二酸化炭素取引やエコ××のように、これらの問題を解決するふりをして金を儲けて事態を悪化させるものが跋扈した。

我々は真理から目をそむけて、これらの問題は他人のせいであると思い、官僚をいじめ、公務員をいじめ、教員をいじめ、働かない若者をいじめ、働く若者もいじめ、年金取りの高齢者をいじめ、中高年もいじめ、大相撲をいじめ、農村をいじめ、都市もいじめ、昔の人がよく考えて作った機構を「聖域なき構造破壊」で根こそぎ破壊した。

二〇一五年の第二次食糧危機の際には、農村部で食糧略奪が頻発し、対する自警団も「方言が喋れないものを監禁し、クワの使い方で処分を決める」など魔女狩りの様相を呈した。インターネットでは「クビになった若者が井戸に毒を入れて回っている」「高い年金をもらって生き続ける老人は社会のダニ」などというブログが乱立し、さらに、そのようなことを堂々という政治家が高い支持率を得るようになり、正義を気取っての集団殺戮が相次ぎ、各種自警団の設立と報復的攻撃がはじまった。ここから社会全体の同時多発世界内戦へと発展したのはご存知の通りである。

世界内戦が国家間戦争に移行したのち予想外に早く終結したのは、今日では「明日の神話」と呼ばれているあの尊い数百万人の犠牲があったからに違いない。超大国が小国に使用を試みて、核によって自国の都市を誤爆したこの事件が、内戦に疲れきっていた人々の中に反省とやりなおしを求めさせるきっかけとなった。同胞を史上無い「地獄」へと自らの手で突き落としたとき、我々は「敵」とみなすものに対してどれほど残虐だったかを思い知らされた。宗教をもつものは「神の怒り」「天の怒り」を思わずにはいられず、持たないものも同じ心境を有したに違いない。今日「神話」と呼ばれるゆえんである。

筆者は、二〇一〇年四月に東京大学数理科学研究科に赴任した時、当時渋谷駅に飾られていた岡本太郎画伯の「明日の神話」を見て、涙が止まらなかった。今思えばその絵は、核投下直後にネットカメラが奇跡的に送信した、あの燃え盛る人骨の歩く姿と酷似していたのである。岡本画伯は、五十年後のこの悲劇とその後の人間のありかたを予見して「明日の神話」と名前をつけたのだろうか。

戦争の反省が加えられ、我々の社会はより「真理」を尊ぶように戻った。学問は社会の下僕としてではなく、真理を求めるという元来の軸に戻り、政策からダイエット法にいたるまで、論理的・科学的・人間的に検証が行われ公開されるようになった。戦争を導いたのも「民主的選挙」であったが、戦争を終結させたのも民衆の意見であり、民主主義の必要性も再認識された。健全な民主主義を支える基盤は個々人の良識と教養であり、数学や哲学などの「揺るがぬ基盤としての純粋理性」も再び尊ばれるようになった。インターネットは「独善的・近視眼的世論」を増殖させた大戦犯ではあるが、誤爆を「敵国の攻撃」として報道したマスコミの嘘をひっくり返す「個々人による報道」の力ともなった。

一方、「我々は世界に対する愛を動機として生きるしかないもの」だということは、今回に限らず戦争のたびにかみしめられ、残念ながら忘れ去られていく教訓である。

第二次大戦の教訓は七十年間しか持たなかった。今回の戦争の教訓は、いつまで続くだろう。

(数理)

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