HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報532号(2010年10月 6日)

教養学部報

第532号 外部公開

博物館-死から知への闘い-

遠藤秀紀

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写真1 ラッコと語る筆者
学術へ向けられる人類の熱意が、力ある表現をもって躍る空間こそ博物館である。

世の中の博物館を名乗る組織や装置は、公共事業の冷たいコンクリートのサイコロに化け、また入館料収入でしか自己を説明しない田舎商店に成り下がり、あるいは人間臭なきデジタルコンテンツを並べる貸し会場と堕し、最後には事業仕分けショーの小道具として朽ちていく。

だが、末の世にはびこる芋営業を尻目に、赤門脇に生きるちっぽけな総合研究博物館は、今日も最高の学術空間を創り、最高の自己表現を生むことに、狂喜する。

博物館で無数に交錯する熱狂のひとつに、「遺体科学」がある。世に生じる動物遺体を無制限無目的に集めるために、私の毎日はある。生きとし生けるものが終焉を迎えるその瞬間に、私の遺体科学は、博物館を舞台に躍り始める。

遺体科学は遺体を選り好みしない。天下に無類のジャイアントパンダも、場末に徒党をなすドブネズミも、雪に埋もれ凍てつく亡骸も、泥のように腐りゆく真夏の屍も、博物館の床の上に現われれば、みな同じ学問の宝だ。

私は無数の死と対峙する。そして目を、指先を、嗅覚を駆使して、死の集積から人類の未だ知り得ない発見に到達する。私の五感はつねに死とともに人類の知を築くのである。

今日は、机上に流麗な被造物が横たわった。命なきかたちの主は、ラッコだ(写真1)。水族館の人気者、そして乱獲と自然破壊のネガティブなシンボルを演じるこの主人公は、陸上でなら誰にも負けない軽快な運動者であったはずのイタチの親類を、海に生かした進化史の結実だ。

「ちょっとだけ、真実を語り合わないか?」 

亡骸の後肢に、そう呼びかける。野山を走り回った祖先からうって変わって、北の氷海を生涯泳ぎ切るには、水の抵抗に対処できる強力な推進力を後ろ足に宿さねばならない。そこに描かれた歴史絵巻を、いまから指先で感じ取り、肉眼で見つけ出す。メスで切り、ピンセットで開いていくこの美形の骨盤に、膝に、そして足首には、陸から海へ暮らしを切り替えたときの混迷が、しこたま詰め込んであるはずだ。

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写真2 博物館に生きる無数の骨
(特別展「命の認識」より)

時空を超えた進化の足跡――それを抉り出す戦場で、頼れるものは五感のみだ。遺体から歴史を読み解く私には、高価な分析機器もコンピューターも不要だ。最初の発見は、いつも私だけが感じ取る。他の誰よりも鮮やかに、私が感じ取ってみせる。そう断言できるからこそ、解剖は面白い。博物館は面白い。

 尽くされることなく遺体を集める学の狂喜を、「遺体科学」と人は呼ぶ。このちっぽけな博物館は遺体で埋め尽くされてきた。それでも飽くなき私の欲望は、いまの十倍百倍の遺体を運び、そこにメスとピンセットを走らせようとする。それが私にとっての博物館の創生なのだ(写真2)。

遺体は必ず未来を生きる。人間の短い一生を見送りながら。博物館は死から知を構築し、未来へ引き継ぐ。うずたかく積まれていく亡骸の山は、標本と呼ばれながら知の宝庫に化ける。ときに理の破綻に敗れ、ときに世界観の革新に酔うちっぽけな学者は、そこに人類の目に見えないくらいの小さな足跡を描こうと、もがき続ける。ちっぽけな床でちっぽけな学者の、真理を求める闘いは続く。今日も、そして明日も。

(総合研究博物館/比較形態学・遺体科学)

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