HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報534号(2010年12月 1日)

教養学部報

第534号 外部公開

2010年のピンボール――村上春樹(1973)でなくワディントン(1957)の主題で――

金子邦彦

この七月は例年になく忙しい思いをした。パリ、香港、北京と三つの国際会議に立て続けに出る羽目になったからだ。パリは進化発生学(Evolution―DevelopmentでEvoDevoと略される)、香港は統計物理学、北京は生物物理学と、異なる分野からの招待だったけれども、統計物理をスタートに生命現象の物理を進めて、今、進化―発生の研究をしている身としては、挑戦状を受けた気にもなり、ついすべて引き受けてしまった。

B-1-2.gifさて、この異なる分野の会議のいずれでもしばしば登場したのが、五〇年以上前に英国の生物学者ワディントンが描いた、後成的地形(epigenetic landscape)とも言われる図である。ゆるやかな地形からだんだんと谷が現われ、その谷が深くなっていく、この地形変化をワディントンは細胞が分化する過程のイメージとして描いた。現代的な表現でいえば最初にいろいろな細胞になれる多能性の細胞(ES細胞)があり、それが発生時間とともにいくつかの細胞タイプに分かれ固定されていく、この過程を谷底へボールが転がり落ちていく、として描いたのである。爾来、この描像は細胞分化・発生の理論を考える人たちを魅了してきた。

とはいえ、これだけではあまりに何をいっているかわからない。この地形はそもそも何なのか? 細胞内では遺伝子からタンパク質がつくられ(「遺伝子発現」といわれる)、そのタンパク質が今度は他の遺伝子の発現に影響して別なタンパク質がつくられる、この結果、いろいろなタンパク質の組成はある決まった状態をとる、それが一つの谷で、また別な組成の安定状態が別な谷であろう――それは既にワディントンがイメージしていた。とはいえ、これでもまだ地形が何かよくわからない。これに関しては力学を一般化した、「力学系」理論の進歩により、遺伝子発現の動態がある状態におちこむ、というイメージが数学的に表現されてきた。更に、タンパク質に蛍光を持たせてその量を測ることで、こうした数学理論の当否を実験でも確認できる、このあたりが北京の会議のテーマだった。

しかし、これで解決できるのはある地形での谷への落ち方だ。地形の変化はどうつくられているのだろうか。ES細胞は最初の浅い谷にあり、細胞数が増えた結果、細胞が互いに影響しあうことで、地形がかわり、深い谷がつくられ、そこに落ちるのが分化ではないだろうか。こうした考えをもとに、十年ほど前に当時大学院生だった古澤力さん(現阪大准教授)と、相互作用する細胞モデルを計算機上で調べてみた。その結果、初期のタンパク質の量(遺伝子発現)が時間的に(不規則に)振動していると、細胞間の相互作用により、別な細胞の状態が生まれることが見出された。

後者の細胞はほぼ一定のタンパク質の量を持ち、それは分裂しても、もとの状態には戻らない。つまり最初の振動している状態は、いろいろな状態をつくる可能性を持った多能性の細胞で、それから、その能力を失って固定化された細胞があらわれる。地形のイメージでは最初の浅い谷とは別な、もっと深い谷が生まれたともいえる。

十年ほど、この理論は実験家にはさしたる興味を持たれていなかった、誰もタンパク質の量の振動を見ていなかったからだ。ところが昨年になって、ES細胞では実際に、あるタンパク質の量が振動しているという実験結果が現われ、別なグループからも、多能性を持つ細胞で遺伝子発現の状態がゆっくりと遍歴しているということが報告された。また、我々の理論では深い谷に落ちた状態から最初の浅い谷の細胞の状態に戻すには、いくつかの遺伝子の働きを活性化すればよいのであるが、これは昨今世界をにぎわしているiPS細胞の話と符合しているようにもみえる(とはいえ、実験的にどの遺伝子を活性化させればよいか予言はできないのだけれども……)。

こうした最近の情勢に勢いづけられて、昨年、基礎科学科の鈴木稔人君が、五つの遺伝子が互いに影響しあう細胞モデルを卒業研究で調べてみた。この影響の仕方には膨大な可能性があるけれども、鈴木君は一億以上の場合のシミュレーションを敢行して、タンパク質の量がある種の不規則な振動を示すと、実際に上で述べたような細胞分化が生じることを明らかにした。また、そのためには三つの遺伝子が、ある関係を持てば十分なことも明らかにし、さらにこの関係を持つような遺伝子を組み合わせていって何種類もの細胞への分化を設計することにも成功した。もちろん、理論が机上にとどまるか現実の生物にあてはまるかを検証するのは実験である。北京ではその方向の議論もできて楽しい時間をすごすことができた。

次にパリの会議はEvoDevoという名の通り、発生と進化をつなぐもの。そして、ワディントンの天才たる所以は、ここであげた地形を発生だけにとどめたのではなく進化とも結びつけて構想し、遺伝子の変化がこの地形をまねするようにかたちづくられるとした点にある。ではこの発生での谷の深さと進化のしやすさ(進化側での地形)の間に関係があるのだろうか? 僕自身は、遺伝子発現の動態のシミュレーションをもとにそうした関係を見出して、それを統計物理の考えで説明しようとしている。パリはあいにく猛暑の一週間に当たり、しかも会議場には冷房もなくて、うんざりしたけれども、こうした理論を実験家とも議論でき、しばし暑さを吹き飛ばすことができた。

さて香港の会議は統計物理。いくらなんでも物理の会議で、こんな研究の話はアウェイだろうと思いきや、なんと講演の半数近くは生命現象関係、さらにその半分くらいが進化。さすがに発生と進化をつなぐような「複雑」な話は僕以外にはなかったけれども。

学生の皆さんは、いったい数学、物理、生物といった学問の境界はどうしたのだろう、と思われるかもしれない。しかし、そんな区分はたまたま人間がこの百年ほどで作ったものに過ぎない。生命とは何かという大きな謎を解くには、ちっぽけな縄張り争いなど忘れて人類の知を総動員しなければならないだろう。すごく難しそうにみえる? しかし鈴木君の卒業研究をみていると、自分で面白いことをやっていくぞという挑戦精神さえあれば、若者はそんな困難など軽々とのりこえていけるようにも思える(まあ、基礎科学科の教育がよいから、と自画自賛してよいのかもしれない??)。皆さんの活躍に期待したい。

(複雑系生命システム研究センター)

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