HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報537号(2011年4月 6日)

教養学部報

第537号 外部公開

ロスアラモスの青い空 ――金子邦彦さんの仁科記念賞受賞に寄せて――

池上高志

B-2-2.jpg面白くなきゃ物理じゃないよ。(“physics should be fun!”)これは、金子さんに教えてもらった、ロスアラモスの非線形科学研究所(CNLS)長デビッド・キャンベルが辞める時に残した言葉だが、この言 葉どおり、金子さんの研究はつねに面白く、時代を切り開いて来た。どんな題材でも面白くしてしまう才能がこの人にはある。

八〇年代は、非線形科学が非常に明るく創造的であった時代で、コンピュータという新しい方法論を武器に、理論家も実験家になれる時代がやってきていた。 それはつまり、理論家も発見し観察し現象論をつくることができる。一見アマチュア科学的でありながらも、実は深淵な寺田寅彦的秘密が随所にあり、何にも増 して新しい言葉と概念がそこから生まれる楽しい時代であった。

その明るい創造性の時代の旗手であったのが、金子邦彦氏である。当時大学院生であった僕は、「金子マジック」と言われる、かずかずの新しいアイディアと 発見に感嘆してきた。結合格子モデル(CML)をベースとして、時空間パターンの現象学、移流不安定性による分岐現象、ソリトン乱流、アトラクターに落ち ない系としての乱流、カオス的遍歴現象、などなど、物理学には、こういう面白さもあるのか。こうした金子さんがつくり出した科学の世界観は物理学にとどま らず、生物学、経済学、哲学、アートへと重大な影響を持ち、複雑系の科学として九〇年代に展開していった。

そんな金子さんのアメリカの新婚のお宅に、どういうわけだか一ヶ月も居候してしまって、いろいろな人にあきれられた。一九八八年のことである。暑い夏の ロスアラモス。金子さんの家は、トリニティードライブの角にある家で、ウィンドチャイムが風に揺れていたのを思い出す。その時に、共生進化、ホメオカオ ス、情報論と複雑さ、トーキングヘッズ、新しい水泳の方法、ベイトソン、小林恭二、三島由紀夫、ポロック、あらゆることを二人で話し、それがみんなロスア ラモスの青い空に吸い込まれていった。

この滞在の間、CNLSに毎日歩いて通ったのだが、その時に大きな橋を渡っていく。眼下には、サンタフェに続く渓谷が広がっていて、遠く青みがかったサ ンタフェの山の上には、気が遠くなるほど広く青い空に、飛行機雲とまじって多様な雲が散在していた。とにかく光が眩しい。ロスアラモスは高度二千メートル のメタ台地の上にあるし、余分な建物は見渡す限り何もないのだ。こういう空をシミュレートしたいな、と金子さんと話していたのは、すでに二〇数年前の夏で ある。

金子さんは現在、本格的な細胞生物学の数理化に取りかかっているが、そこに至る前の抽象性の高いモデルが僕との議論の中心だった。中でも弱くて大自由度 のカオスが、いろいろな生物のネットワークにおける多様性維持のメカニズムとして働きうるという、ホメオカオスの理論を考えた時は楽しかった。モデルの背 後に、システムのパラメターの自己決定性が盛り込んである。それは、免疫系のネットワークや熱帯雨林、言語や現在のウェブの多様性のメカニズムとしても考 えられ、いま、僕がサステイナブルなシステムを考える上で重要なベースとなっている。

もっとも金子さんの視野はめちゃくちゃに広いものであり、生物進化のモデルはその一部であり、本家の理論物理学、流体システムや保存系のカオス、大自由度カオス系のメカニズムについても、数多くの仕事があることは断っておきたい。

一九八九年に、金子さんは名誉あるUlam fellowとしてロスアラモスに再び招かれ、ぼくは性懲りもなく、また半年ほど遊びにいっていた。CNLSは面白いことを、がんがん生成する工場のよう な感じで、人工生命の国際会議をたちあげたクリス・ラントンをはじめ、コンピュータの中のラムダ計算化学系をはじめたウォルター・フォンタナや、のちに ノーマン・パッカードと株の予測会社を始めたドァン・ファーマーらのカオス研究者など、世界中から精鋭が集っていた。あの時の研究所の熱気は、そのままロ スアラモスの乾いた夏の空気と一緒になって、思い出すと今でも気分が高揚するのを禁じ得ない。

八〇年代に触れることのできたあのロスアラモスの青い空は、奇跡のようなものであって、今はもう失われてしまった。しかし駒場には今、金子邦彦をセン ター長とする複雑系生命システム研究センターがある。僕も所属するこのセンターには、澤井哲、若本祐一、豊田太郎、福島孝治、ほか当時のロスアラモスの熱 気を凌ぐ、新しく優秀な若手が集まっている。良き時代を振り返るのはこれくらいにして、僕らは未来圏から吹く風を感じないといけない。二一世紀には二一世 紀の非線形科学を。

だから今回の金子さんの仁科賞の受賞、日本の物理学では最高峰に属する賞も彼にとってはおそらくは通過点のようなもので、お祝いを言うのも怒られそうだ が……、この場を借りて、おめでとうございます。これからも下手な映画や小説よりもはるかに面白い研究を見せ続けてほしいと願っています。いやぁ、いくつ になっても眩しい存在である。

(広域システム科学系/物理)

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