HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報538号(2011年5月11日)

教養学部報

第538号 外部公開

反水素の窓から自然の謎に思いをはせて

松田恭幸

今となってはずいぶん昔のように感じられるのですが、去年の十二月に私たちの研究室に嬉しいニュー スが飛び込みました。私たちの研究室を中心とする研究グループが挙げた研究成果が英国物理学会の PhysicsWorld.com が選ぶ breakthrough of the year 2010の第一位に(他の研究グループと共同で)選ばれたのです。どんなことを目標にした研究でどんな成果があがったのか、この場を借りてご紹介させて頂 きたいと思います。

みなさんもご存じかと思いますが、自然界のあらゆる物質は原子からできています。その原子の性質を詳しく調べることで、私たちの世界を司っている自然界 の法則を調べよう、というのが私たちの研究室の研究テーマです。でも、一口で原子の性質を詳しく調べる、と言ってもいろいろなアプローチがあります。私た ちの研究室では、普通の物質を作っている原子ではなく、普通の原子の中の粒子が他の粒子に置き換えられた原子の性質を詳しく調べ、その違いを明らかにする ことで自然の謎を解き明かそうとしています。なかでも力を入れているのが、反水素という原子の研究です。

反水素とは何でしょう? 水素原子は陽子と電子から出来ていますが、反水素は陽子の反粒子である反陽子と、電子の反粒子である陽電子からできている原子 のことです。二つの粒子を両方とも取り換えてしまっているので、性質がガラッと変わってしまうと思われるかも知れません。でも実は、陽子を反陽子に、電子 を陽電子に取り替えるということは、粒子と反粒子を取り替える、という操作を1度しているだけです。粒子と反粒子を取り替えるという操作は難しい言葉では CPT変換といいますが、物理の法則はCPT変換をしても変わらないと考えられています。ですから、水素と反水素の性質(質量や放出する光のスペクトル) も変わらないと予想されているのです。これをCPT対称性といいます。

ところが、身の周りを見渡すと不思議なことに気が付きます。私たちの周りには粒子からなる物質はたくさんあるのに、反粒子からなる反物質はありません。 地球の上ばかりではなく、太陽系を探しても銀河系を探しても、宇宙中を探しても反物質は圧倒的に数が少ないのです。これは何故でしょう? もしかしたら物 質と反物質はホンの少しだけ性質が違うのかも知れません。それを確かめたい、そのために反物質を作ってその性質を詳しく調べたい、というのが私たちの研究 の動機なのです。

私たちは研究対象として最も単純な反物質である反水素原子を選びました。水素原子はその構造が簡単なために、これまでに様々な精密分光実験が行われ、多 くのデータが蓄積されています。ですから、反水素の分光実験を行うことができれば、そのデータを水素原子と比較してCPT対称性に破れがあるかどうかを調 べることができます。しかし、一口に反水素の分光実験を行う、と言っても簡単ではないのです。

さきほど説明した通り、私たちの周りには反物質がありません。ですから、反水素を作るために必要な反陽子と陽電子も作りださなくてはなりません。なかで も反陽子を作るためには加速器と呼ばれる大型の装置が必要です。そのために私たちは実験装置をスイス・フランス国境に位置する欧州原子核研究所 (CERN)に設置することにしました。ここには反陽子減速器(AD)と呼ばれる装置があり、反陽子を加速器で作りだすだけではなく、反陽子を作られたと きのエネルギーのおよそ千分の一(5.3MeV)にまで減速して供給してくれます。

しかしこれではまだ反水素を作るには速すぎます。(反)水素原子の結合エネルギーは eV のオーダーですから、反陽子と陽電子の間の運動エネルギーが eV 以下にまで低くならないと反水素はほとんどできないのです。そこで、私たちはRFQDという減速器と反陽子トラップMUSASHIを開発し、大量の反陽子 を貯めこみ、百万分の一にまで減速して引き出すことに成功しました。

こうして得られた低いエネルギーの反陽子と陽電子を磁場と電場を用いて閉じ込め、混ぜ合わせると反水素を作ることができます。実はこのことは十年ほど前 に示されていたのですが、次の困難が待ち受けていました。作られた反水素はすぐに外に逃げ出してしまい、分光実験を行うことはできなかったのです。

そこで私たちは反陽子と陽電子を閉じ込め、そこで作られた反水素をカスプ状の不均一な磁場を用いて収束し、ビームとして外に取りだして分光実験を行うと いう手法(CUSPトラップ法)を提案し、開発を行ってきました。一方、他のグループは作られた反水素を別の形の不均一な磁場を使ってその場に閉じ込め、 そこで分光実験を行う、という手法をとりました。競争が始まったのです。

私たちのとった手法には分光実験を行う装置が反水素を作る装置の外にあるという大きなメリットがあります。反水素をその場に閉じ込めるためには強い不均 一磁場が必要ですが、そのような環境の下では原子のエネルギー準位が磁場の影響を受けて変化してしまうため、分光実験の精度がどうしても下がってしまいま す。ところが私たちの手法では反水素を強い磁場から外に取り出すことができるので、分光実験を精度よく行うことができるのです。その反面、私たちの手法に は難しい点もあります。

反陽子を冷却して閉じ込めるためのMUSASHIトラップの他に、反水素を作るCUSPトラップ、分光実験を行うための磁石とRFキャビティ、検出器と多くの実験装置を用意し、これらの装置を反陽子や陽電子を効率よく輸送するビームラインで結ばなくてはなりません。

また、反物質は物質と衝突すると消滅してしまうため、MUSASHIトラップやCUSPトラップの中は大気圧の一京分の一(10-11Pa)程度という 超高真空に保つ必要があります。さらに反水素を合成するCUSPトラップの中は反陽子と陽電子をさらに冷やすために 15K程度にまで冷やす必要があります。こうした困難を乗り越えて、去年、私たちのグループはCUSPトラップの中で反水素原子を高い効率で合成すること に成功し、反水素をビームとして取り出すための基礎技術を確立しました。ほとんど同時に、他の研究グループは反水素原子を合成し不均一磁場の中に閉じ込め ることに成功しました。

冒頭に紹介した breakthrough of the year 2010 はこの二つのグループの成果が「反水素研究での大きな進展」として共同で評価されたものです。
 と、これまで私たちの研究グループの成果を紹介してきましたが、こうした研究を推進する原動力になっているのが大学院生やポスドクの方々です。CERN の加速器の運転期間や他の研究課題との兼ね合いで、私たちが実際に実験をすることができるビームタイムは一年のうちに十週間程度しかありません。この期間 を逃すと続きは一年後になってしまいますから、実験の準備はあらかじめ綿密に整えておかなくてはなりません。

またビームタイムの間は土日の休みもなく、ビームが出ている八時間の間はデータを取り、ビームが出ていない残りの十六時間の間にデータの解析と翌日の実 験の準備を続ける、というふうに交代でシフトを組みながら作業を続けます。実を言うと私はこの研究グループの中では新参者で、教養学部に着任し、山崎泰規 教授(現特任教授)が率いるこの研究プロジェクトに参加したのは三年前でした。

そこで目にしたのは、大学院生やポスドクという若い研究者(とその卵)が、実験を行うための準備や作業をするだけではなく、外国人を含む共同研究者と装 置のデザインやデータの解析法やその結果について議論し、これからどんな作業を進めていかなくてはならないかを提案し、これからの準備作業やデータ解析に 向けてのスケジューリングまでイニシアティブを持って行っている姿でした。

この研究プロジェクトを主体的に動かしているのは大学院生とポスドクだったのです! そのなかで私に出来たことは、彼(女)らが少しでも快適な環境で研 究活動を行うことが出来るようにサポートすることだったように思います。大学教員にとっては、大学院生が専門分野の理解と知見を深めるにとどまらず、この ような大きなプロジェクトを推進する力を身につけてゆく姿を見ることはとても嬉しく、また誇らしく思えるものです。私が着任してから今春までに二人が博士 号を、三人が修士号を取得しました(今春に博士号をとった榎本くんは平成二十二年度の「東京大学総長賞」を受賞しました)が、彼らがこれから研究者・社会 人として活躍していくことを確信しています。

さて、Breakthrough of the year 2010を受賞した私たちのグループも相手のグループも、目標である反水素の分光実験には成功していません。競争はまだまだ続くのです。私たちの研究室で は四月から新しい大学院生をまた一人基礎科学科から迎え、反水素原子ビームを用いた分光実験のための磁石などを設置する準備をすすめているところです。近 い将来、教養学部報で世界初の反水素原子の分光実験の結果を報告できるのを楽しみにしています。

(相関基礎科学系/物理)

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