HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報542号(2011年11月 2日)

教養学部報

第542号 外部公開

〈時に沿って〉 はじまり、はじまり

古荘真敬

哲学を研究しています。どうして哲学を研究しようと思ったのですかと、先日もまた聞かれてしまいました。お答えします、それは偶々です。

今は昔、駒場で知り合ったK君からフッサールの読書会に誘われたのが、「哲学」との付き合い始めでした。彼は理系の学生でしたが、文三生の私などよりも ずっと文学や思想、映画や音楽に詳しくて、魅力的なひとでした。煙草の吸い方、酒の飲み方からはじまって、恋の仕方や哲学の語り方に至るまで、彼の影響を 受けなかったことはありません。偶々、彼が本当に魅力的な人物だったから、つい、哲学(精確には彼に教わった「現象学」)にハマってしまったのです。

まさか自分が、もう一度あの駒場に戻って、あのK君といっしょに読み始めたフッサールやハイデガーを、学生のみなさんと読むことになるなんて思いもより ませんでした。大袈裟に言えば、これは私にとって、自分の哲学の「始まりの場所」への還帰とでもいったことになるわけですが、何だか夢を見ているようでも あります。夕暮れどきに構内を散歩していると、昔のあれこれが不意にそこらじゅうからよみがえってきて、立ちつくしてしまうこともあります。

四月にこちらに赴任してくるまでは、九年間、山口大学で教員生活を送っていました。その間に結婚して子どもを育てはじめたり、新鮮なできごとの連続だっ たので、東京時代のことはすっかり忘れて暮らしていました。駒場の時代のことなど、ほとんど忘却の彼方に遠のいていたというのが正直なところです。こちら で働きはじめたのを機に、そんな昔のことを急に思い出したりしはじめたものだから、いささか混乱しているのかもしれません。

落ち着いて、もっと精確に考え直してみようと思います。「始まりの場所への還帰」だなんて気取った言い方は、誤りだったかもしれません。「時に沿って」の記事を書くのに都合のいい過去を、捏造しようとしてしまったかもしれません。

そう。K君との出会いが私の哲学の始まりだったなんて、恰好つけて言ってしまいましたが、それは偶々今でも私が哲学を続けているから、その現在から振り かえって、お伽噺を作ってしまっただけの話でしょう。あの当時の本当の〈始まり〉のリアリティーが、それを「何かの始まり」として意味づけようとする現在 の都合によって損なわれてしまうのを感じます。本当の〈始まり〉は、後に「何かの始まり」として回顧されることなど予想だにせず、ただ端的に始まっていた に違いありません。それは日々、生き生きと生じては、過ぎて行ったことでしょう。

こんなことを考えている現在もまた、「何かの始まり」として回顧されることになるのかもしれませんが、そんな未来の視点は、現在存在しません。都合のよ い未来からの回顧的意味づけなどとは無関係に、新しい駒場の毎日の〈始まり〉を満喫したいと思います。K君の面影が、それにしても懐かしい昨今です。

(超域文化科学専攻/哲学)

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