HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報543号(2011年12月 7日)

教養学部報

第543号 外部公開

<送ることば> 安達裕之先生を送る

横山ゆりか

駒場に助手として赴任して最初に授業を担当したのが安達裕之先生の図学実習だった。埃と紙くずにま みれた製図準備室兼教材庫で、めくってもめくっても減らないように思える提出図面の束に眩暈を憶えながら、必死で赤鉛筆を走らせたのを思い出す。先生はそ のころから辛辣で口数が少なく、最小限の指摘しか下さらないのであったが、驚いたことにそれは的確にツボをついていて、一言のおかげで注意すべき図学的要 素が判明するというものだった。

その頃私は、東京南千住にあった汐入という集落に伝わる近代の文書を読み解く仕事を、建築史の先生に唆されて始めたばかりだった。文書を読むのは初めて で七転八倒している私に、「遥かなる中世、朧なる古代、愚かなる近世と言うんだよ。近代などは歴史に入らん。だいたい、明治の文書は手が悪い。こういうも のをやる人の気が知れん。」とおっしゃりながら、しかし一つひとつ丁寧に不明部分の読み方を教えて下さった。実際、先生のご覧になる江戸時代の文書の筆運 びの流麗さに比べてひどく読みにくいものであったが、面倒がらずにご教示下さったことに、専門家として間違いを放置しておけないプライドを感じ、またそう した先生に教えを請えた有難さを感じたものだった。

先生は和船の歴史の第一人者である。文書が読めて、かつ図面が読める(図面からモノが再現でき、場合によっては製作法までわかる)という稀有の歴史家で あるように思う。しかし、歴史家であって工学部出身であるということ自体珍しい部類に入る上、図学教室に所属しているというのはさらに珍しいあり方であ る。そこへ「愚かなる」近世文書を扱うという立場で、歴史分野では悔しい思いをされたのではないかと勝手な推察をしている。

それでも先生は一人黙々と文書を求めて全国を歩き、また和船を描いたあらゆる絵図を閲覧する旅を続けていらした。先生の専門の、弁才船を一とする在来型 帆船は現存していないので、文書や絵図から「リアル」に迫る困難な研究であった。先生はその道を極め、現存する木造船の実測・図面化やいくつかの弁才船の 復元に関与するに至る。私はといえば、授業の打合せのたびに、折々のお話を楽しみにしていた。

三面図でどちらから見ても面が投影面に対して角度を成し、互いに直交する稜がない六面体を、どう整合させて図面にするかを考えるには、レーザーで計測す る今でも図法幾何学が必要で手作業をしたことなどを、語られた。和船の部材はそのようなものだった。またある時菱垣廻船「浪華丸」の復元の話をされ、昔な がらの製作法を絵図などから解明して再現されたことをうかがった。探しあてた絵図などによると、昔は浜で大釜に湯を沸かし材木を曲げながら緊密に組んだよ うだという話をうかがい、形や情景がまざまざと浮かんだものだった。

そのようなことで、歴史家であるとともに、図学教育にはことのほか熱心でいらした。カリキュラムの縮小とともに教科内容を絞る流れにあって、安達先生の 図学には昔に近いボリュームがあった。その代わり、学生に請われる限り最後まで教え、成績表の〆切り直前までレポートの受付と指導をされてきた。

図学教室に遺る明治以来の教材、製図機器や製図作品は今では世界でも貴重な史料であるが、これが散逸を免れたのも、安達先生が保存され管理にご尽力され たからである。幸いにも先生に整理を頼まれ、目録づくりや展覧会の準備を手伝わせていただいたために知るところとなったが、先生はあまり多くを語られてい ないように感じる。  今、送ることばを書きながら、安達先生が誰にもおっしゃらずに支えてこられたあれこれに思い至り、粛然としている。

(広域システム科学系/情報・図形)

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