HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報544号(2012年1月11日)

教養学部報

第544号 外部公開

〈本の棚〉野矢茂樹著『語りえぬものを語る』語りえぬものを語るを語る

山本史郎

544-C-8-3.png野矢さんはウィトゲンシュタイン研究の第一人者である。そのことは言を俟たない。また、哲学の垣根をこえて今や売れっ子の文章家であることを疑う人もいないだろう。

本書は、講談社のPR誌『本』に二年余りにわたって連載された文章を柱に、多くの「コラム的な」注釈が書き加えられたものだ。そんな事情にもかかわらず、野矢さんは一般読者のためにレベルを落としてはいない。所どころくだけた文体が顔を出すが、あとがきにも触れられるように、それは野矢さんの思索スタイルにとってそのような文体のリズムがぴったりだからだ。ここにいるのはいわば素顔の野矢さんであり、もっとも濃厚で芳醇な哲学の「原酒」が供されているといってよい。

よく言われることだが、アカデミーの海を泳いでいる哲学者には二つの顔がある。過去の偉大な哲学者の祖述家としての一面と、自身が独自の境地を切り開いてゆく思想家としての一面である。この『語りえぬものを語る』で、野矢さんはどのような顔を読者に見せているのだろうか?  ご著書『「論理哲学論考」を読む』のあとがき(二〇〇六年)に、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』から『哲学探究』への思想的転換が詳しく解説されている。ウィトゲンシュタイン自身の印象的な言葉を用いるなら、「つるつるの氷の上」と決別し、歩くことのできる「ざらざらの大地」への復帰をめざすようになった、という。

『論理哲学論考』では、我々の「世界」は「論理空間」だった。これはめいっぱい広い世界、つまり、言語(概念)によって想像できるかぎりの世界である。そこでは、例えば、今日の正午に富士山が噴火してもよいどころか、豚が空をとび、手を離れたボールが上に「落下」することもありうる。名辞と述語のありとあらゆる組み合わせの全体を包含する世界だ。つまり、純粋な論理としてありうる世界。

この現実と離れた「論理空間」の超克にこそ『哲学探求』が代表する後期ウィトゲンシュタインの進境があるが、そのようなウィトゲンシュタインについての研究の深化とともに、野矢さん自身の思索が深まってきた。そして、その過程で「私に見えてくるようになった哲学的風景」を読者に見せようというのが、『語りえぬものを語る』という書物なのだ。

では、それはどんな風景なのだろうか?

我々は現実には、可能性をめいっぱい含む「論理空間」に住んでいるわけではない。様々のありえない可能性を切り落とした「行為空間」に住んでいる。ただし、これは意識的なプロセスではない。我々の生の自然として取り込まれているものだ。人間は現にある世界の形に合わせて言語や思考習慣をつくり、その論理の中でくらしている。だが、ぴったりと世界の形をなぞることはありえない。世界には無数の驚きががある。語りえぬものが充満している。「言語は、あるいは言語的に分節化された体験や世界は、非言語的な体験の海に浮かぶちっぽけな島にすぎない」。

言語は世界のそんなでこぼこと対決し、自らを修正させていく。本書ではこのような観点から「隠喩」という言語現象があざやかに記述され、科学理論のありようが明晰に説明されている。

本書では、相対主義、因果、相貌論、懐疑論、私的言語、知覚と概念など、「語りえない」、あるいは語ろうとするとパラドックスに陥る様々な問題が論じられているが、すべてはつながっている。この本を読んで、私にとって特に嬉しいのは、自分がこの世界に生きている実感をうまく説明してくれている、と感じられることだ。そのような哲学書が、今までどこにあっただろう?

だから、野矢さんは現代哲学の営みにあきたらない。非概念的な語りえない世界を無視し、「理性が野放しになった最たるものが哲学なのである」。ハムレットも「この世には君の哲学では夢想だにしないものが存在するのだ」と言った。だが、野矢さんは「あとは沈黙」と言って、ファンを突き放すことは決してないだろう。
〈講談社、二六二五円〉

(言語情報科学専攻/英語)

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