HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報544号(2012年1月11日)

教養学部報

第544号 外部公開

〈駒場をあとに〉駒場をあとに

三角洋一

544-D-2-1.jpg何を書かせていただこうか、迷いに迷った。どうせ自慢話か、秘話か、お説教か、遺言のような思い出話になるに決まっている。

清少納言の『枕草子』には自慢話が多いので鼻につく、という受け止め方をする人も少なくないようであるし、ライバルの紫式部の『紫式部日記』にいわせれ ば、「清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人、さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべりけるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり」 と、同情の余地もなくけなされる。

儒仏の考え方を排した国学者の本居宣長の『玉勝間』によれば、仏教的な心構えを説くことの多い兼好法師の『徒然草』もいい所はなく、「花は盛りに、月は くまなきをのみ見るものかはと言へるは、いかにぞや…人の心にさかひたる、後の世のさかしら心の、つくり風流(ミヤビ)にして、まことの雅心にはあらず」 と、「仏の教へにまどへる」ものと否定される。

さて、どうしたものか。どうせ自慢話をするのなら、この線でいくしかないと思ったのが、『徒然草』第二三八段の轍を踏むことであった。そこには、こうあ る。「御随身近友が自讃とて、七箇条書きとどめたる事あり。皆、馬芸、させることなき事どもなり。そのためしを思ひて、自讃の事七つあり」。しかし、私の 場合、紙数の制約もあり、七つに達するかどうか。

一、
私は着任以来、毎年のように月曜一限にジュニアで『源氏物語』のどこかの巻を講読してきた。月曜が振り替え休日になったのははるか後のことである。近年 は、前期課程のカリキュラム改革による授業科目の新設や、時間割を固定して教員をローテーションで回すなどのことがあって、貫徹できなかったのは心残りで ある。

一、
着任後、数年経って大学院の授業担当も兼ねるようになってから、おもに東アジアからの留学生のために『源氏物語』の読書会を始めたところ、とうとう全五四 帖を読み終わって、現在は二巡目に入り、第九巻の葵巻を読み進めている。研究生から博士課程修了まで在籍した留学生なら、五~六年間は付き合ってくれたは ずである。

一、
どういう時間割の都合からか、国語講読の授業に文Ⅱの男子学生だけ八名が受講ということがあった。月曜一限は昔は三〇〇名以上が登録、近年でも一〇〇名前後が聴講しているのにと思うと、開講するのは好ましくない時間帯だったものか。
たまたまテキストが中世女性日記の『とはずがたり』であったのは幸いであった。『とはずがたり』は当時の性的に放縦な宮廷社会のできごとを赤裸々に描いた 作品で、女子学生だけの女子大やご年輩が大多数のカルチャー・センターで取り上げることはあったが、駒場で講読したのは後にも先にもこの時だけである。軽 い気持ちで口に出してしまったことが、男性か女性かどちらか片一方の不興を買うという虞の生じるところ、男子学生とともに読み進めるのは気楽で、しばし皆 で異次元の世界に心をやるという奇妙な体験をした。学生もそれなりに感銘をおぼえたのか、今も時々私の研究室を訪ねてくる統計経済学者の教え子もいる。

一、
理系の学問・研究では第一発見者になるか、初の成功者に栄誉が与えられると聞いているが、文系にもわずかながらそのような分野がある。私は散逸した物語を 組み込んだ物語文学史を構想したことがあって、かつて『校註国歌大系』の初句・四句索引を頼りとして、散逸物語の和歌の類想歌探しを試みたところ、『四季 の物語』に鴨長明の和歌が利用されていることと、『おやこの中』の和歌と『千載集』の二条太皇太后宮式部の詠が一致することが分かり、しかるべき機会に発 表した。どちらの物語も作者が知られて、史的な位置づけも可能になったという大発見である(と私は思っている)が、その後三〇年経っても、だれも言及して くれたのを見たことがない。

一、
もう旧五科体制(いわば前期部会中心)の古い時代の話になるが、毎年の恒例で、わが人文科学科と外国語科との軟式野球大会が年一度開かれていた。しばらく の間は遠くまでボールを追いかける外野手をつとめたが、どう見込まれたのか、丸山松幸さんの譲りを受けて長くキャッチャーで活躍した。肩が弱くて盗塁され 放題ではあったものの、しっかり本塁を死守したことは誇ってよい。竹田晃・河内十郎・伊藤亞人の三投手の球を受けたこと、外国語科には蓮實重彦・刈間文俊 の両捕手がいたことを覚えており、左バッターでは巧みにライトに打ち返す新川健三郎・門脇俊介の両選手の姿が目に焼き付いている。確か社会科学科とも一度 は対抗戦をしたはずで、それにしても勝ち負けの記憶がすっぽり抜け落ちているのは、勝ったり負けたりしていたからだろうか。

一、
もう自慢話が底をついてきた。私の入学は昭和四一年、クラスは文Ⅲ六Dであった。殊勝なクラス・メイトがいて、一〇年ほど前から三三五五集まって旧交をあ たためるクラス会が開かれていると聞いている。私はこれまで二度ほど、出席すると通知しては直前になって取り消すような醜態を繰り返してきた。もうすぐ身 辺整理がついたあかつきには、晴れて顔を出したい。

駒場の関係者の皆さん、今までいろいろお世話になりまして、ほんとうにありがとうございました。

(超域文化科学専攻/国文・漢文学)

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