HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報544号(2012年1月11日)

教養学部報

第544号 外部公開

謎とともに去...らないで 氷上忍先生を送る

金子邦彦

氷上先生は(僕にとっては)謎に満ちた方である。専門分野は統計物理の世界屈指の研究者であり、僕 の能力ではとても紹介できないほど高度に抽象的な数理物理の研究を展開している一方で、突然、高温超伝導の実験で世の中をあっといわせる。ランダム行列の 統計物理の研究から数学史上最大難問のひとつリーマン仮説に挑むと、同時に光を局在させるという実験を部屋の片隅で始めたりもする。実は高い実務能力をお 持ちであるにもかかわらず、なぜかそれを学内では認識されずに、つい最近までほとんど学内の要職にはつかずに幸せに過ごされる。

研究三昧で浮世のことには興味などなさそうに見える一方、急に地震予知に精を出される。あまり教育に興味がなさそうにもみえるのに、実は基礎科学科の学 生の資質を的確に把握していらっしゃる。僕は長い間、この謎を解明したいと願っていた。その夢叶わぬうちに氷上先生を送り出すことになってしまった。残念 至極である。

氷上先生は駒場の大学院で博士号取得後、海外でのポスドクを経て基礎物理学研究所時代に書かれた Hikami-Larkin-Nagaoka 論文により、その名を高からしめる。不純物による電子散乱をスピン軌道相互作用がある場合に見事な解析を行って、電気伝導の理論と実験へ多大な影響を与え た論文である。その後、氷上先生はくりこみ群理論による解析も進められ、その業績により第二回西宮湯川記念賞を受賞されている。ここにも一つ謎がある。も し理論物理学者を論理派と直感派に分けるとすれば、こうした緻密な計算による成果を挙げられた方は、論理派の極みではないかと考えられる。ところが全くそ うではない。

たまたま氷上さんが外国の研究者に最近の研究を説明する場に居合わせたことがあるけれど、研究の論理の展開が飛んでいくので、音をあげていた。もちろ ん、間違ってなどなく、ランダム行列の特性多項式に関する、緻密で画期的な研究だったのである。察するに、計算(ダイアグラムの足し合わせ方)への独自な 直感を有していらっしゃるのかと思われる。近年はランダム行列の統計力学研究をフランスの研究者とともに展開、その高い評価から、定年後はこれまでもしば しば滞在されたパリの大学の招聘に応じられると予想されていた。それを見事に裏切って、四月からは沖縄で新しい研究室をたちあげようとしていらっしゃる、 さすが氷上先生である。

このように世界を代表する理論家でありながら、四半世紀ほど前の高温超伝導研究ブームの折りには、趣味の陶芸用に東急ハンズで買った炉を使って、世界記 録の転移温度を持つ物質を合成し、実験家を呆然とさせる。その時も、ちょっとチョークの粉を混ぜると転移温度が上がる、といった発言が伝説として残ってい る。

僕は着任後まもない頃に研究室を志望してきた学生について氷上先生に尋ねてみたところ、彼は(成績よりもずっと)頭がいいよ、とたちどころに薦めてくだ さった。その学生は良い研究をして若くして教授になっている。人を見る上でも独自の直感をお持ちなのかもしれない。ちなみに当時、学部生の間では講義の難 解さにもかかわらず(あるいはその故に)特別な尊敬の念が氷上先生に抱かれていたようである。

数理物理では世界の誰もが認める深い研究。化学実験にまで通じる幅の広さ。考えてみるとこれは基礎科学科の理念そのものである。基礎科学科の同期生で盟 友(?)として長い間学科を背負ってこられた氷上さんと小宮山さんが同時に去り、そしてそれとともに学科自体も定年を迎えようとしている。氷上先生の新し い研究室と期を一にして私たちも統合自然科学科をオープンしようとしている。これからも折りにふれ来駒され、新学科の方向について含蓄のある示唆をしてい ただきたい、まだ謎が解けていないので。

(相関基礎科学系/相関自然)

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