HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報544号(2012年1月11日)

教養学部報

第544号 外部公開

〈駒場をあとに〉駒場との出会い

北田均

544-D-7-1.jpg駒場では三十有余年お世話になったが、この地に職を得るとは子供の頃は全く想像していなかった。

私の両親は学問とはほど遠く青森の極貧の寒村の生まれで、まさか私が東大の教師になるとか東大に入るとか大学に行くとかということは想像もしていなかったに違いない。

戦後の混乱と極貧のなか親は生きるところとして東京を目指し、私が生まれる二ヶ月ほど前上京し、祖父の家にやっかいになった。住むところとてない戦後の時代であり、大きな家であったが故に故郷から数家族が上京し同居することさえあった。

あるときは通りすがりの東大関係と思われる若い夫婦が住まわせてくれと言って四畳半一間に子供連れで入居したこともある。

あまりの窮屈さに、母が言い出してどこか郊外に土地を探しに行くことになった。もちろん自前の金などなく、社長からの借金を持ってである。

井の頭線沿線の富士見ヶ丘で不動産屋に入り、「いい土地があるから」と言われて、父は社長から借りた大金をすぐさま差し出したら、不動産屋はすぐ受け取 り、名刺の裏に印鑑を押して渡し、「今は領収書の用紙がないからしてこれで代わりになるから」と言った。下北沢に戻り祖父に話したら「それではだめだ。領 収書をもらってこい」といわれ、父はとって返したが不動産屋は頑として領収書を出さなかった。

結局社長から借りた大金を詐欺されたのであった。

その代わりと言って不動産屋は借地を用意すると言い、当初買う予定であった百六十坪に相当する別の場所の借地を当てて、ひとまず父は納得させられたようである。そもそも小学校しか出ていない田舎者は東京の風にすぐ見抜かれ、如何様にも好きにされてしまう時代であった。

元々貧乏であったのに、このような大金を借金しどうにもならないようなものであるが、祖父は宮大工であったので多少の材木は持っていたようで、その百六 十坪の土地に六畳一間の小さな家を一人で三ヶ月ほど通って建ててくれ、やっと大家族の家を離れ自分たちのすみかにとりあえず移り住むことができた。私が四 歳の時である。その後この借地に関しても様々なことがあったが、何とかここに三十九年間住んだ。

このような生活であったから、幼稚園にも行かず百六十坪の土地と周りの原っぱのなかを毎日かけずり回るのが楽しい子供時代であった。そこに小学校に行く という知らせが役所から届き、「学校」なる言葉を初めて聞いた。聞けば小学校は義務とか言う。人なかに出るより原っぱで遊んでいる方がよっぽどましなの に、突然の不幸が襲った。

小学校に入り周りを見れば、幼稚園に通っていたおしゃまなおぼっちゃま、お嬢様ばかりが目立つ。私のような、十まで数えられれば小学校に入れると近所の 人から聞いて思い込んでいた母から習ったような子供は埒外である。もうみな競争の世界に入っている人たちばかりである。なかにはわたしのようなはみ出しも いたのだろうが、競争に強い子はとにかくまず目立つことを目指すらしく、そのような子供しかいないと思えた。

このような状態で三年近く過ごして、もうそろそろ学校も終わるだろうと呑気に構えていたら小学校には六年も通わなくてはならないことを知り、また人生が暗転した。しかしある時間に担任が休みで代わりに教頭先生がきて話をしてくれたときがあった。

いろいろな話のなかで「大工さんほど頭がよくて数学ができる人はいない」という言葉が耳に入りはっとした。数学という言葉が初耳で怪訝な顔をしている子 供に気がついたらしく、「つまり算数のことです」と補足してくれた。このときもしかしたら自分も教頭先生に認めてもらえるような人間になれるのではない か、と言う期待が一瞬心をよぎったことを覚えている。

 四年生になり担任が替わり、男勝りの怖い女の先生になったが、反省会の時間はテーマを決めて生徒に自由に発言させてくれるので、その時間に自分の言いた いことを発言できるのがうれしかった。しかし学校に行っていて自分の人生はどうなるのだろうという疑問は変わらなかった。

五年生になる頃だと記憶しているが、あるときその怖い女の先生が、休み時間に鉄棒やドッジボールをすることのみを至上の楽しみとする私の首根っこを捕ま えて「この本を読んでみなさい」と言って、二冊の科学に関する子供向けの読み物を渡してくれた。その時代は本といえば子供向けでもハードカバーの上等な本 ばかりであったが、その本も図書館から先生が借りてきてくれた本であった。

本など読む習慣はなかったが、そのうちの一冊は化学者たちの物語で、昔の化学者が如何にして物質の分子構造を発見したかというような、小学生にとっては 少々難しい事柄が書いてあった本であった。しかし子供ながらにわかるように書いてあり、読み進むうちに、ケクレという化学者がベンゼンの分子構造を発見し たのはさんざん考えてもうだめだと思った後に夢のなかにあの環の構造の分子構造が忽然と現れた、という下りが出てきて「へー」と仰天した。

この本を読んでから、学校で教えられている事柄にもおもしろいことがあるのだとわかった。それから勉強に興味を持ち始め、そのうちでも算数の問題を解く ことに夢中になった。しかし一題どうしても解けない問題があった。ある図形の面積を求める問題であったが、それまでに習った方法や自分で工夫した方法をい くら駆使しても解けない。先生に聞いても友達で算数方面に強い人に聞いてもだめであった。そのうちの一人に親が医者をやっているのがいて、そのお父さんに 聞いてもらってやっと答えがわかった。聞けば「積分」という方法を使うということである。「積分てなんだ?」という大疑問がわいた。

そのまま問題を抱え中学に進み学校の授業は聞いていればわかるので、本屋で立ち読みしながら、なけなしの小遣いで大学の本を買うようになった。中学二年の頃には微分も積分も何とかわかるようになってきた。

でもこれは、小学校の先生が勧めてくれた本にあったスリルある発見物語とはほど遠いものであった。本屋で立ち読みしながら「これは」と思った本を購入し 読み進むにつれ、相対性理論というものがあることを知り、『相対論の意味』という本やいろいろな本と格闘していた。そうこうするうち、小学生の頃の疑問で あった原子や分子のまた奥にある素粒子について書かれた湯川秀樹の『素粒子』という新書に出会った。

ここに未だ解けていない発散の問題というものが如何に難しいものであるかということが書いてあった。駒場に至る道の出発点であった。

私の人生において未知のものを究めるということは、家の裏の原っぱのなかから不思議なものを見つけることと同じ価値で、大きな意味があったが、人との関 係において物事はどうであるべきかということはほとんど意味を持たなかった。駒場に職を得てからもこの子供時代の精神はいっこうに変わらず、組織改編とか 人間をどう配置するかと言うことにはほとんど意味を感じられなかった。その故であろうが、この方面の仕事は同僚諸氏のご厚意によりだんだんと割り当てられ なくなった。大変ありがたいことであった。

長年の駒場での研究生活を陰日向なく支えてくださった同僚の先生方、およびいつも親切に対応してくださった事務の方々、守衛室の方々、そして私の拙い授 業を忍耐と励ましをもって聴いて下さった優秀な学生の方々、すべての方々に感謝の意を表して結びとさせていただきたい。ありがとうございました。

(数学)

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