HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報545号(2013年4月 3日)

教養学部報

第545号 外部公開

〈駒場をあとに〉 駒場の四季とスローライフ

奥野誠

545-D-3-1.jpg年度末が近付いてくると、教養学部報には「駒場をあとに」が登場する。一九九一年には、私の恩師で ある毛利秀雄先生が「席をゆずる話」というタイトルで執筆なされていて、その下欄に私の送る言葉が載っている。それから二〇年、入学時から考えると、私は 四〇年間近く駒場に籍を置いたことになるが、今度は私が去る立場になってしまった。この間、大学では大きな変化があった。そもそも当時は教官が退官したの だが、今は教員で退職である。所属も、教養学部から大学院総合文化研究科になった。理系の後期課程も、私の出身である基礎科学科のほかに、現在所属してい る生命・認知科学科と広域科学科が新設されたが、今これらは再編成されようとしている。

ところでその時の私の送る言葉は「土筆によせて」というものだった。当時、生物学教室といってい た現在の生物部会には酒豪が揃っており、夕方ともなるとほとんど毎日どこかで宴会が始まるのが慣習となっていた。その中にあっても、桜並木での花見は一大 イベントで、OBの先生方や、他の教室の先生方をも巻き込んで、百名近くの盛況になることもあった。毛利先生はその時に必ず駒場で摘んだ土筆の佃煮を持参 されたのだった。私は集めたことはないが、駒場内で春の七草がそろうとも言われていたし、私は野球場脇の土手で野蒜を摘んでは味噌和えにしたりした。

五月も末になると井の頭線線路脇の梅林で梅がたわわになる。ゆっくり成熟を待っていると近所のお ばさん達に先を越されてしまうので、その頃合いが大切だ。採りに行くと常連の先生と出くわすこともあった。秋は銀杏拾い。そして銀杏並木に黄金色の葉の舞 う初冬を迎える。食の季節巡りのようになってしまったが、自然に溢れる駒場キャンパスは、その存在が四季を感じさせてくれた。

現在も駒場の四季は変わらないが、人の生活はずいぶんと変わった。生物部会でも酒宴の回数はめっ きり減ってしまった。二〇年以上もたったのだから当然ではあるが、教員も学生も、当時とは隔世の感がある。私が助手で着任したとき、受け持たされたのは生 物学実験だが、どのクラスも数人は終電近くまで帰らない学生がいた。それに全く違和感なく付き合ってきたものだが、現在は遅くとも五時頃には皆引き上げて しまうようだ。講義でも、かつては授業内容についての質問が多かったが、最近は試験の範囲などが主で、内容に関することを聞きに来たかと思うとシケ対(試 験対策委員)であるという。いろいろ話してみると優秀な学生が多いが、こうして学業に関わる時間を削り、余った時間を何に使っているのか、多分いろいろな ことを要領よく楽しんでいるのだろうが、私のような不器用な人間には釈然としない。

一方、我々教員の側も何かと忙しくなった。前期課程、後期課程、大学院と授業だけでなく、会議な ども増え、さらに研究も激しい競争にさらされるようになって、酒を酌み交わしながら話す余裕も少なくなってしまった。どうしてこうなってしまったのか、こ のような現状を寂しく感じるのは私だけだろうか。

このような感傷に浸っていると、思い出すのはお世話になった多くの先生や職員の方々だ。お世話に なった皆様に心からお礼を申し上げたい。一方、私が彼らに何をしてきたか、駒場や東大のために何か貢献してきたかと問われると、返答に窮すほど何もしてこ なかった自分に愕然とする。私は駒場という個性豊かな人々が作出した雑木林の中に紛れ込んで、密かに生息してきた一本のウドのようなものだ。たとえウドで もウドなりに、駒場についての思いをもう少し述べたい。

退職を控えて最近よく考えるのは、人の幸福とは何かという事である。内容をはっきりは覚えていな いが、学生時代に強い衝撃を受けた本の一つがレヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』だった。最終章の有名な言葉である「世界は人間なしに始まったし、人間な しに終るだろう」とは逆説的に、人間の幸せとは何かという問いを鋭く突き付けられたことを記憶している。この問題意識は私の中で徐々に熟成してきた。確か に私たちの生活は向上し、研究についても多くの高額な実験機器が導入され、様々な実験が可能になった。だがそれは研究における幸福感を増しただろうか。幸 福感は絶対値ではなく、何かを達成しつつある過程で感じるものではないだろうか。それ故に、低い生活レベルであっても、初歩的な研究であっても、そこで感 じる幸福感が原動力となり、次のステップへ人を進ませるのではないかと思う。学問研究におけるこの幸福感は、分野を横に拡大して知の幅を広げていくこと、 一つの分野を深く極めること、この両方で得られると思う。

多くの大学で後者に重点を置いているのに対し、駒場ではリベラルアーツを掲げているのであるか ら、前者にもっと重点を置いても良いのではないかと思う。生命科学でいえば、現在あまり陽の当たらない形態学とか、生理学などをより広く学べ、研究できる 場を設け、研究者も学生も広がる知に幸福感を感じる環境ができたらと思う。現在は大学も研究者もシビアな競争下に置かれている。しかしせめて駒場は、その ことを意識するべきではないかと思う。これは難問ではあるが、ヨーロッパの大学ではまだそのような雰囲気がいくらかは維持されているように見え、決して不 可能なことではないと思う。

私が若い頃はまだ世界は無限で、無限に発展していくという幻想が輝きを残していた。しかし今は化 石燃料をはじめとして、有限なものと意識されるようになった。加えてグローバル化、格差社会、悪しき完全主義が、やり場のない閉塞感を生んでいるように思 える。さらに今年は東日本大震災と原発事故が、重くのしかかってきている。そのような状況下だからこそ私は幸福感により高い価値を置いた人生を考えるべき ではないかと思っている。私の中で、それはスローライフである。駒場の四季はそのためのペースメーカーとして絶好だと今にして思う。今後は退職し雑木林の 外に立つわけだが、一歩離れて駒場の四季を愛でながら、スローライフを追求していきたいと思っている。梅林などでもし私を見かけるようなことがあれば一言 声をかけていただければ幸いである。

(生命環境科学系/生物)

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