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第548号 外部公開

〈本の棚〉中島隆博著『共生のプラクシス~国家と宗教』 渦巻く公共空間と「義」の条件

石井剛

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中島隆博著
『共生のプラクシス~国家と宗教』
(東大出版会、5250円 )
わたしたちはいったい、だれと共に生きているのだろうか。いや、だれによって生かされているのだろうか。「共生」の条件を哲学的に問う著者は、開口一番、「他者と共に生きる以外にわたしたちの生はない」と言い切る。著者の視野の中で、共に生きる他者とは、字義に違わず、「わたし」以外の一切の存在者である。

著者は、すべての他者に開かれた「共生」の空間を新たな公共空間(「渦巻きの共同性」)であると見なして、その可能性の条件を中国哲学に依拠しながら探ろうと試みる。

この挑戦的な試み――あるいは、プラクシス――が向き合おうとする他者は、啓蒙の誘惑に惑わされることのない小人や愚者に始まり、異類の動物たちや死者、そして堕胎の瀬戸際にある胎児にまで及ぶ。ほかでもない、それはわたしたちが、彼らの存在によって生かされているからである。

だが、著者が言おうとしているのは、すべての存在者、すべての可能な他者に、平等で均質な権利を与えようとすることではない。「共生」という生の条件は、そのようなおだやかなものではなく、否が応でも他者と共にあらざるを得ない抗いがたい勢いの中にあるわたしたちに倫理を要請している。それは他者への共感や気遣いといったオブラートに包まれたような思いやりに決してとどまりきらない、厳しい倫理の要請である。

したがって、そこには、万物が自然を謳歌しながらハーモニーを奏でる「和」は予定されない。そこで要請される倫理とは、いかにあるべきか、いかになすべきかという当為の準則としての「義」= justice にほかならない。

ならば、他者がわたしに寄り添われること、わたしと共にあることを望んでいない場合にはどうなるのだろうか。著者は「強死せし者」のほうへと向かう「共生の倫理」こそが求められると言う。だが、「強死」、つまり望まずして強いられた死を遂げた者の憎しみと無念に寄り添うことが、その死を強いた側にも可能なのだろうか。ほかの問いもできる。「強死せし者」の憎しみと無念を共有しさえすれば、そのことによって、彼らとの共生が成立したと言えるのだろうか。ともすればそれは、さらなる犠牲の饗応を招くだけなのではないか。

おそらく、他者をいかに遇するのかではなく、他者に遇されているわたしを見つめなおすことから始めるべきなのかも知れない。

ここでジル・ドゥルーズに導かれながら著者が問うているのは、「わたし」が他なるものに化す可能性についてである。例えば、『荘子』斉物論篇の末尾で荘周が夢の中で蝶になるという「物化」の寓話を著者は引く。自他の分節を揺るがすことは、「わたし」と他者が相互に不可分な関係として浸透し合っていることを気づかせる契機となる。だが、著者が言うように、『荘子』が描く変化は軽やかで、結局のところ、時間なきいまに安穏と自足する、責任なき主体を肯定することにもなる。『荘子』の描く物化は、「わたし」の来し方と行く末を見はるかすことなく、いまに自足し、結局他者に届くことがない。

そうだとすれば、わたしが「わたし」であることを、他者との逃れられない関係の中で、どうやって引き受けることができるのか。ドゥルーズにおける「能動的な喜びの感情」、ジャック・デリダにおける「眼球喪的収縮」。著者が中国哲学のディスコースに差し挟む二人の西洋哲学は、「変化の倫理」に手がかりを提供する。「涙を流す瞬間」、「窓から身を躍らせた時」――。著者がこの二つのクリティカル・モメントに注意を払うのは偶然ではない。著者はここで、瞬間において、倫理と責任の可能性が開かれうるか否かを問うている。共生の公共空間が排除の論理を内包する前に倫理の端緒をつかむためには、おそらくこれしかないということなのだろう。それは言いかえれば、無限の瞬間の生滅であり、たゆまぬ変化をプログラミングした運動への覚悟である。

だが、それはいかにすれば可能なのだろうか。「変化の書」(『易経』)を不動の古典に据える中国の知においてならば、可能なのだろうか。著者が言及する「批判儒教」なるものが不気味に本著の末尾でその姿をもたげる。いったい、それは何なのか。なぜまたぞろ「儒教」を名乗らなければならないのか。

ドゥルーズの「中国」が恐ろしい危険を内在していたのと同様、著者の「プラクシス」は、危ういバランスの中で、自らに挑戦を課している。

(地域文化研究専攻/中国語)
 

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