HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報551号(2012年11月 7日)

教養学部報

第551号 外部公開

モンゴルと手をつなぐ

宮原洋子

 私がモンゴルと関わるようになったのは九五年の夏からだ。研究室の休みにたまたま見つけた乗馬ツアーで訪れたのがきっかけで、以来やみつきになったのである。今でこそ大相撲力士の出身国として知られているが当時はあまり知られていなかった。チャーター便で降り立った首都ウランバートルは社会主義国ソビエトを思い出させた。空港の兵士、道幅の広いコンクリートの道路、看板のない建造物。車はめったに走っていないが市の中心にあるスフバートル広場には馬がつながれていた。九二年に生まれ変わったばかりのこれからの国だった。物資の少ないデパートに行った時「これでもチョーよくなったんですよ」と当時流行の若者言葉で流暢に話す日本語学科の学生ガイドは説明してくれた。驚いたことに彼は日本に一度も行った事がないのだそうだ。

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市から五分程車で走ると草原にでる。風渡る緑の草原に白い点描のように羊の群れが草を食む。馬は小柄だがねずみ穴に足をつっこんでこけても平気な顔して走る。鐙の上に立ち人馬一体とはこのことかと思うくらい気持ちよく風を切って走る。丘の頂上に立てば遠く遥かに見えるなだらかな丘陵は古代よりの地形そのままを残し、この馬とならばあの丘の向こうのどこまでも行けると、きっとチンギスハーンも思ったであろう。馬飼い達が馬に乗り走る姿はまさに騎馬部隊だ。キャンプ最後の夜の宴席で歌の上手い馬飼いにひとつ歌を教えてくれと頼んだら翌朝三時間馬上で懇切丁寧、徹底的に教え込まれた。もちろん互いの言葉は知らない。モンゴル恐るべし。日本では忘れているような何か大事なものを持っているかもしれないと無性に知りたくなった。

551-B-2-1-03.jpg駒場にはじめて国費留学生がきたのは九六年だ。そのうちの一人J・ハグワスレン氏は物理・数学が全国トップの経歴の持ち主で、その一年前に初めて日本語を習ってもう学部の授業を受けていた。当時文化人類学の伊藤亞人教授がモンゴル式住居ゲルを持っていたので建ててモンゴル料理を作って食べようと集まり、勢いで駒場祭にも参加したことが懐かしく思われる。噂を聞いて線路近くの留学生会館にいたモンゴル人がいつのまにか集まってきた。彼らは愛想よく「私に何が手伝えますか」と誰もが聞いてきた。協調心が自然と身についているのだ。そして皆で母国料理を堪能しながらの話の中心は国のために何をするか、だった。

先の彼は母国でIT企業を経営している。他は欧米留学、国家公務員、外資系の銀行・企業等に就職している。初の東大女子学生となったO・ツェレンジャルガル女史は今駒場近くにある大使館で商務担当として働いている。現在モンゴル人留学生は増え、彼らの留学生会は毎年ゴールデンウィークにモンゴルの文化を紹介するハワリンバヤル(春祭り)を開催している。三万人規模の祭りに全国からモンゴル人が集まり旧交を温めている。

もう一つ馬頭琴という二弦の擦弦楽器がある。草原のチェロと言われ日本では「スーホの白い馬」という物語で知られているが古くはチンギスハーン時代に既にお付き奏者がいたという。弦と棹の間が二センチほどあるのでチェロのように弦を指板につけるのではなく左手の指の爪と腹で横から押さえて弾く。私はすっかりその深い音色に魅せられモンゴルでは男もすなる楽器といふものを女もしてみむとてはじめて十二年、なかなか奥の深い楽器である。モンゴルでは魔除として家に飾り、邪気を祓い家畜も癒すといって尊重されている。日本人の心にも響くこの馬頭琴を拡めようと会を組織し小学校やイベントで紹介活動をしている。

このたび日モ外交樹立四十周年を記念し草の根的友好親善活動をしているということで「ナイラムダル=友好」勲章をいただいた。若輩者の私にはS・フレルバータル大使をはじめ、先生方他様々な支援なくしてはありえないことで誠に感謝の意にたえない。その勲章にはウルジーオタス(吉兆の紐、ペルベウ)という、愛と調和を表し、て切れ目がないことから永遠をあらわすチベット仏教の八吉祥の文様の前で握手をしているのが描かれている。モンゴルでは「大変な時に友の性分がわかる」という諺があるが「何が手伝えるか」と私が問う番だと気持ちを新たにしている。

「知り合いが多いこと草原の如し、少ないのは掌の如し」という諺もある。日本で閉塞感に苛まれたらぜひ馬に乗り草原にいでよ、悠久の自然モンゴルはいつでも待っている。 

(総務課職員)

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