HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報553号(2013年1月 9日)

教養学部報

第553号 外部公開

浦雅春先生をおくる言葉

渡邊日日

浦先生が今年度で定年! うーん、ものすごく困った。あの「浦バー」(裏バーではない)が今年度で閉店になったら、酒と癒しを求めて私はどこへ行けばいいのだ?

浦先生との出会いは私が修士課程の頃、ロシアの文化理論家ミハイル・エプシュテインの「ロシア・ポストモダニズム」論を検討するゼミの場であったように想う。「わし、もう疲れたなぁ」といった語りと表情とは裏腹に、浦先生のテクストの読みは鋭利であり、ゼミ参加者の追随を許さなかった。その後、専門が少々異なるということでゼミにお邪魔することはなかったが、駒場の教員となってからは、同僚との相互作用の総時間(勿論酒席のそれも含む)で言えば、恐らく最も多くを過ごしたお方である。

浦先生について語るには、先ず、チェーホフ研究について触れる必要があるだろう。その成果は言うまでもなく、岩波新書の『チェーホフ』(二〇〇四年)である。ロシア文学が専門ではないから的外れかもしれないが、私にとって印象深かったのは、いっけん「手軽に」読め、「簡単に」「消費」されそうに見えるチェーホフの作品群に潜む、素手で触れたらスパッと出血するかのごとき、鋭角の厳しさが見事にえぐり出されていた点であった。しかし、浦先生の筆致は、チェーホフやゴーゴリの光文社古典新訳文庫の一連の訳本に表れているように、軽やかな透明さをも有している。どこかで繋がっているが、すぐにはその連関が見えないこうした二種類の側面を同時に見せてくれるところに、浦先生の研究があった訳だが、それは、浦先生のお人柄にも言えるのではないか。

浦先生の周囲の教員や学生への気配りは、誰しもが認める先生の一端である。「自分が癒されたいのに、なぜわしが他人を癒さなくちゃあかんねん」とは先生の台詞だが、実際、例えばご病気された時、見舞い客を笑わせて帰らすなど、その芸当は極めて高度である。その芸当は、「優しさ溢れる」とか「日向ぼっこしているお爺ちゃん」とかいう系統のものではなく、チェーホフやロシア・アヴァンギャルド芸術(特に演劇・映画)に関するご自身の研究スタイルとどこか相同形になっている、独自の厳しさに裏打ちされたものなのであろう。

であるからこそ、私は(否、我々は)、「浦バー」の常連客になったのである。厳しさと笑いとを絶妙なバランスで兼ね備えた人間は、ある種の不動の立場を確保する。特に昨今のように刻々と時代が変化するとき、そうした人間は、世界を眼差す人々にとって定点となる。私にとって浦先生とは、浮動する自分が一歩立ち止まって自分の座標軸を確認する上での羅針盤であったのだ。

これまであそこまで御世話になったのだから、今度は私がホスト役となって浦先生をお迎えしなければならない。そのために最初になすべきことは、たこ焼き器を買って、美味しいたこ焼きを焼けるようになることだ。秘伝のレシピをお持ちの方は是非ご一報を!

(超域文化科学専攻/ロシア語)

 

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