HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報553号(2013年1月 9日)

教養学部報

第553号 外部公開

三〇年越しのラヴレター――ヴァセルマン先生をおくる

森山工

「ハクイ」という、あまり上品ではないことばがあります。今ではほとんど死語ではないでしょうか。もとは江戸時代のテキ屋の隠語で、美しいとか上等であるとかという意味だったようです。わたしが学生の時分には、もっぱら女性の美しさをいう若者ことば(ちょっとした不良ことば)でした。

「今度フランスからきた女の教師、ハクイぜ」。

およそ三〇年も前、駒場の前期課程生であったわたしがヴァセルマン先生について聞いた、それが最初の評判でした。その噂に惹かれ、友人と連れだって、授業を履修するでもないのに先生の教室をただ覗き見に行ったのは(「ハクイな」─「うん、ハクイ」)、何とも愚かな、子供じみたふるまいでありました。

その後、駒場の後期課程フランス科(現・教養学科地域文化研究分科フランス研究コース)に進学し、覗き見でなく、先生の授業を受講するようになりました。フランス語の会話や表現練習の授業です。授業で接する先生のまなざしは、つねににこやかでありながら、ときに冷厳でもあり、いつも授業には親密感と緊張感とが不思議な同居を果たしていたのでした。

フランス語には、二人称単数(あなた)をいう代名詞が二種類あります。一つは「テュ(tu)」という主格で代表される系列で、内輪の親しい間柄や目下の者に対する「あなた」です。もう一つは「ヴ(vous)」という主格で代表される系列で、こちらは相手と社会的距離を取りつつ丁寧に呼びかける「あなた」です。フランス語生活のなかで、この「テュ」と「ヴ」をどう使い分けるのか、知り合った当初は遠慮がちに「ヴ」で呼び合っていた二人が、何をきっかけに「テュ」で呼び合うようになるのか(たとえば一線を越えた男女!)、などということは、言語経験のなかで感得するしかないものなのかもしれません。

後期課程フランス科の二年間、ヴァセルマン先生の授業に出続けていたわたしを(そして学生全員を)、先生は当然のように「テュ」で呼んでおられました。学生への親愛のあらわれだったのでしょう。しかし学生にとっては先生ですから、同じように「テュ」で呼び返すことはできません。教員への敬意を示すべく、「ヴ」でお呼びしていたわけです。

その後わたしは文化人類学の大学院に進学し、フランス科からは離れましたが、時折訪れるフランス科で接するヴァセルマン先生にとって、相変わらずわたしは学生であったのに違いありません。大学院時代を通じても、それまでどおり先生はわたしのことを「テュ」で呼び、わたしのほうは先生を「ヴ」で呼び続けていたのでした。

さらにそれから十年近くがたち、今度は教員として駒場にわたしが着任したときのことです。ヴァセルマン先生に再会し、先生に着任のご挨拶をすると、先生はすぐにわたしを思い出してくださったようです。でも、わたしにとって驚きだったのは、曲がりなりも「同僚」としてわたしを迎え入れたその瞬間から、ヴァセルマン先生がわたしを「ヴ」でお呼びになったことでした。

フランス語という言語の奥深さを実感させられた、それは瞬間でした。その後、「同僚」としてのわたしに、「ヴ」での呼びかけを維持されつつも、かつてと同じようなにこやかさと、ときとしての冷厳さをもって接してくださったヴァセルマン先生。噂に釣られて最初に覗き見したときのまま、今も「ハクイ」です。

(地域文化研究専攻/フランス語・イタリア語)
 

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