HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報556号(2013年5月 1日)

教養学部報

第556号 外部公開

物理と数理の散策:ラマヌジャンの庭

国場敦夫

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シュリニヴァーサ・ラマヌジャン
(1887-1920)の肖像切手
唐突ですがグラファイトを御存知ですか。そう、炭素からなる元素鉱物で黒鉛と言えば馴染み深いでしょう。ミクロに見るとグラファイトは幾つもの薄い層が重なった構造をしています。各層内では、炭素同志が強く結合して綺麗な配置をしています。蜂の巣をご覧になったことがあるでしょう。それと同じで、同じサイズの正六角形が幾つも並んだ麗しい構造を想像してみてください。読んで字のごとく、これを蜂の巣格子または六角格子といいます。各格子点が炭素原子、辺はその共有結合に対応します。さてグラファイト表面にヘリウムガスを導入すると炭素原子と結合します。どんどん冷やしていくと熱による擾乱がなくなり、くっついたヘリウム原子は蜂の巣格子の格子点に居座り続ける様になります。しまいには全部の格子点がヘリウム原子に占められてしまうのでしょうか。

皆さんは原子は数学的な点ではなく、大きさがあるのを御存知ですね。今の場合、ある格子点をヘリウム原子が占めるとその直ぐ隣の格子点には別のヘリウム原子がくっつけなくなります。いわば、ヘリウム原子の間で椅子取りゲームが起こるのです。うんと冷やしてなるべく多くのヘリウム原子を座らせようとしても、排斥効果のせいで満席にならず、空席と占有席が交互に繰り返した配置になります。仮に元々の座席が交互に赤と緑だったとすると、始めは遠目に中和して無色ですが、温度を下げると赤あるいは緑っぽく発色し始めることになります。(例え話です。実際には「座席」に色はありません。)実際にこれに相当する相転移現象が絶対温度3K付近で起こる事が実験で確かめられています。転移温度では比熱が鋭いピークをもつなど特異で興味深い事がおきます。

このような現象に迫る方法論の一つが統計力学です。微視的な自由度が従う相互作用の情報から、莫大な数が集まった時に発現される巨視的物理量、今の例なら比熱やヘリウム付着率などの性質を導く理論です。ただしこれは原理上のお話です。何か有意な帰結を導くには単純なモデル化や様々な工夫、数学的技巧が必要です。今の問題ではどうでしょうか。モデルとしてはごく単純に二次元の格子を考えます。各格子点にはヘリウム原子が付着しているか否かの二状態をとる微視的自由度があるとします。これだけなら計算は容易です。でも今の問題で肝心なのは先に述べた隣同志の排斥効果です。ヘリウム原子がある点にいるとその隣はだめという条件付きの計算はとんでもなく複雑になってしまうのです。普通ならここで数値計算したり近似的手法を用いる所ですが、これを厳密に求めるという離れ業をやってのけた人がいます。

ロドニー・バクスターという人で一九八〇年代初頭のことです。どんないきさつでそんな幸運に恵まれたのでしょう。付着率を無限級数として表し、プログラムを走らせていたら、ある時パソコンの画面に周期五の規則正しい数列が表示され始めたそうです。無限級数が無限個の因子に因数分解されたのです。奇跡です。19世紀にまで遡る神秘的なロジャース・ラマヌジャン恒等式がほぼ百年の時を経て眼前に飛び出してきた瞬間でした。相転移がラマヌジャン関数の特異性として見事に捉えられたのです。タイムリーなことに、ちょうどその頃ロジャース・ラマヌジャン恒等式は単なる孤立した奇跡ではないことが認識されつつありました。

その背後に暗躍している対称性を司る無限次元の代数の正体が、弦理論や量子場の理論のアイデアと相俟って捉えられつつあったのです。付着するヘリウムに課した排斥条件は、この代数の量子選択則にピッタリと符合しました。統計力学の一群の格子ガス模型の何処かに無限次元の対称性が潜んでいる事が見え始めたのです。そんな出来事から現在に至るまでほぼ三〇年が経っています。その間物理学者と数学者がどれだけ濃密な時間を共有してきたか、今どんな景色が見えているのか、想像したくなりませんか?

以上は教養学部統合自然科学科で二〇一二年度冬学期に開講されたオムニバス形式講義「数理科学概論」の一コマです。参考までにフルラインアップを紹介しておきましょう。「物理、数学、理論、数理、計算」、「数値実験で見るパーコレーション」、「生命の数理的理解の可能性」、「有限代数とその実用」、「共形変換と場の理論」、「結晶成長の数理」、「エントロピーと作用素不等式」、「量子力学の解析学」、「格子気体の厳密解とロジャース・ラマヌジャン恒等式」、「人口と感染症の数理」、「素粒子標準模型の対称性とヒッグス粒子」、「情報と熱力学」。これらは広域科学専攻の教員は勿論のこと数理科学研究科からも多くの教員が担当しています。これからも多彩な講師陣から皆さんに刺激的なメッセージが届く機会があると思いますのでどうかご期待ください。

(統合自然科学科/数理自然化学コース)

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