HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報558号(2013年7月 3日)

教養学部報

第558号 外部公開

米国史への招待

西崎文子

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夏の日のイェール大学図書館
2009年秋、バラク・オバマ大統領はノーベル平和賞受賞演説の締めくくりで、マーティン・ルーサー・キング牧師の次のような言葉を引用しました。「歴史の示す意味が曖昧だからといって絶望を選ぶことはできない。今、現実が『こうである』からといって、『こうあるべき』姿を求めることが道義的に不可能だという考え方に与してはならない(意訳)」。オバマ大統領としては、「時に必要な戦争はある」とした自らの演説内容を中和させるためにも、キング牧師の言葉に頼る必要があったのでしょう。それは、二つの戦争を指揮する大統領にとって、ノーベル平和賞受賞はむしろ重荷であることを示すような演説でした。

「こうあるべき」世界を求める姿勢と、「こうである」現実を重視する態度とは、一般的に「理想主義」と「現実主義」として捉えられてきました。これらの言葉が政治や外交の分野で使われるとき、前者は人間社会の進歩を信じ、欲望や対立を理性で制御しながら平和や平等を目指すのに対し、後者は政治や社会を支配する権力や暴力の現実を受け入れ、その中で自らの利益を確保しながら、秩序や繁栄を求める姿勢であるといったように説明されます。これらの立場は、時に単純化されたり、あるいは学問的に精緻化されたりしながら、絶え間ない論争の対象となってきました。

米国の外交史を研究していて気づくのは、この両者の立場がしばしば同一の政策の中に見え隠れしていることです。たとえば建国期を考えてみましょう。1776年に発表された独立宣言の中で、当時の指導者たちは、合衆国独立の根拠を次のように説明しました。すべての人は、生命、自由、幸福の追求という天賦の権利を有しており、政治権力はそれを擁護するために存在する。統治の基盤を人民主権におく米国の原則は、「旧世界」欧州のものとは根本的に異なるのだ、と。ところが、この理想に満ちた宣言の起草者たちは、同時にルイ一六世治世下のフランスとの同盟を模索していました。つまり、独立戦争の勝利のためには、絶対君主と手を結ぶことを躊躇しない現実主義者でもあったのです。このような二面性は、以後、大国となる米国の外交を特徴づけることになります。

理想主義的な言葉の裏に、現実主義・権力政治的な発想が透けて見えることから、米国の外交に対しては、しばしば厳しい批判が浴びせられてきました。自由や平等などの高邁な外交理念を掲げる米国は、抑圧や差別を放置するばかりか、自ら加害者となってきたのではないか。人民主権の原則を掲げながら、軍事的・経済的干渉を繰り返し、政府の転覆を図るのは二重基準ではないか。一九世紀から続くカリブ海・中南米諸国への介入はもとより、ヴェトナム戦争からイラク戦争まで、幾度となくこのような批判が繰り返されてきました。

そればかりではありません。理想主義と現実主義とをないまぜにする発言や行動ゆえに、米国への反感は一種の全体性を帯びることになりました。ある国が、具体的な経済・戦略利益を狙って軍事介入をしたと考えてみましょう。介入される側は大いに反発するでしょうが、相手の目的は何か、その理由を理解できないわけではありません。ところが、米国政府はしばしば、軍事介入を行いながら、これが米国の利益ではなく介入を受ける側の民主主義や秩序のためだと説明します。つまり、あくまでも「こうあるべき」世界を目指しての行動だと主張するのです。しかし、善意を盾にするこのような論理は、軍事介入を被る側には理解し難いものです。そして、はけ口のない憎悪が鬱積しかねない状況が生まれるのです。

ただ、私にはこのような「厄介さ」の中にこそ、米国の歴史を研究することの意義が隠されているように思えます。それは、理念と現実との複雑で終わりのない葛藤を抱え続けるからこそ、米国の歴史は常に同時代史としての性格を帯びると言えるからです。その歴史の中で幾多の困難に遭遇しても、米国は自らが掲げた理念を降ろそうとはしませんでした。だからこそ、理念の実質を問う議論が繰り広げられ、歴史の意味をめぐる論争が持続し、強靭かつ多様な歴史叙述が紡がれてきたのです。さらに、多様な人々が生活空間を共にする米国社会のダイナミズムは、つねにその社会を相対化し、越境し、突き破る動きを生み出してきました。それは、長く米国研究や米国史を支配してきた優越意識、すなわち「米国例外論」を打ち砕く勢いを見せています。保守的な気質を秘めながらも「チェンジ」を称揚する社会。若い皆さんにこそ、そのような複雑で生き生きとした社会に関心を持ってほしいと思います。

(地域文化研究専攻/歴史)

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