HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報558号(2013年7月 3日)

教養学部報

第558号 外部公開

北方の周縁から見たインカ帝国

網野徹哉

この春、南米エクアドルに調査に赴く機会を得た。研究の目的は、同地方の先住民文化が、植民地時代、カトリック教会による宗教的支配のもとでいかなる変容を遂げたのかということを歴史的に探求することにあったが、調査地では、インカ帝国北端の遺跡を巡検することもできた。帝都クスコから北に1600キロも離れたこの地方に造られたインカ様式の精緻な石組みを目の当たりにし、あらためて帝国の巨きさを認識した。

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インガピルカ遺跡

昨年春、上野の国立科学博物館で《インカ帝国展》が開催された。じつに45万人もの方々が訪われたこの展覧会を監修者の一人として準備した私は「インカ人気」の強さに驚愕するとともに、その理由をずうっと考えているのだが、マチュ・ピチュという、かの美しくも神秘的な遺跡への憧憬のみならず、そこには文明の儚さへの哀愁にも似た感情が潜んでいるのではないかと思う。

わずか一世紀のあいだに、人口千万人、南北4000キロにもおよぶ広大な領域を支配する権勢を誇った帝国が、1532年、スペイン人ピサロ率いるたった百数十名の征服者たちによって滅亡させられたことはよく知られている。文字も鉄も車輪も知らなかった民族は、馬と甲冑で武装した機動戦士たちにより、事態を飲み込めぬままにあっという間に蹂躙され、黄金の富を掻っ攫われてしまった。

その後、豊かな帝国の末裔たちは、長い植民地時代のあいだ、農奴的な生活を強いられ、塗炭の苦しみを味わうのである。展覧会では帝国の生成から崩壊、そしてスペイン人支配下のインカ表象にいたるまでの幅広いテーマを、考古学や人類学、そして歴史学の最新の知見を動員して探求したのだが、来場者の感想の多くに「なぜこのような巨大帝国が一瞬のうちに……」という戸惑いがなおも見受けられたのだ。

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オタバロの民衆市場の女性
帝国にまつわる歴史の悲劇の萠芽は、実は版図北方にもあった。第十一代皇帝ワイナ・カパックは父王の征服行がエクアドルにおよんだ時に同地で誕生し、甘美な気候の生地に愛着をもっていたようだ。さらに北方では、オタバロ族をはじめとする勇猛な民族集団がインカ族の行く手を阻んでいた。今回の旅でオタバロの民族集団が生活する町を訪れることができたが、先住民復権運動が活性化する現代エクアドルにおいてその象徴的存在ともなっているオタバロの人々は、インカ軍を苦しめたのと同じように、観光産業に果敢に参入し、グローバリゼーションの波を、彼らなりのしかたで見事にあしらっているようだ。

16世紀初頭、帝国の北への拡大はそろそろ限界に達しつつあった。ワイナ・カパックはエクアドルにもう一つの都を築いた。最近の考古学調査の結果、インカ王がのべにして何十万人という労働者を使い、はるか彼方の聖都クスコから大量の石を移動させようとしていたことがわかった。石を通じて、クスコの聖性をエクアドルに移植しようとしていたらしい。

こうして帝国はクスコとエクアドル地方にふたつの中心をもつにいたった。しかしこれがインカ滅亡の引きがねとなる。ワイナ・カパックがエクアドルで突然死去した。すでにピサロたちがその姿を見せる前に、カリブから南米大陸に上陸したヨーロッパ産の病原菌が、各地の先住民社会を伝わってエクアドルにはいり、インカ王の命を奪ったのだ。その後、クスコとエクアドルに勢力拠点をもつ二人の王子が、空位となった玉座をめぐって血みどろの闘争をくり広げたのである。王国は大混乱に陥った。結局エクアドル派のアタワルパが勝利し、帝国を再編しようとしていた矢先、この渾沌とした情勢に乗じてアンデス世界への侵略を企図していたピサロ一行がやってくる。彼は狡知を駆使してアタワルパ王の身柄を拘束し、その後処刑した。帝国は瞬く間に瓦解する。

もしも世界史におけるグローバリゼーションの第一波ともいうべき「大航海時代」にインカ帝国が飲み込まれることがなかったら、ふたつの聖都を手にした帝国はどのような歴史をたどったのだろうか。今ごろこのオタバロの市場ははどのようになっていたのだろう……すこし高山病にやられた頭でこんなことを夢想しているうちに、柔和な笑顔と話術でお客を捕らえて離さない先住民おばさんに篭絡されてしまった私は、気がつくと両手いっぱいの美しい織物を買わされていた。

(地域文化研究専攻/スペイン語)

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