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教養学部報

第559号 外部公開

フンボルト日和に ――第三五回ジーボルト賞を受賞して

石原あえか

2013年6月6日、ドイツの首都ベルリンにある連邦大統領官邸ヴェルビュー宮殿の上には、雲ひとつない、明るく澄んだ青空が果てしなく広がっていた。

大博物学者の名を戴くアレクサンダー・フォン・フンボルト財団が六月に催す年次大会は、非常に高い確率で晴れる。だからいつの間にか、関係者たちは当日の快晴を「フンボルト日和 Humboldt-Wetter」と呼ぶようになった。「天使が旅すると、空が笑う(=晴れる)」というドイツの諺があるが、研究者は天使に非ず、私は半信半疑だった。というのも最も美しいはずの「麗しの五月」から、ドイツ全土で低温と降雨が続いていたからである。南独パッサウをはじめ洪水被害の報告が相次ぎ、テレビには対策に奔走するメルケル首相が映し出されていた。

夏学期の真っ只中に私が急遽渡独したのは、第四代ドイツ連邦大統領シェールの日本訪問(1978)を機に独政府が設立し、今年第35回を迎えたジーボルト賞(Philipp Franz von Siebold-Preis)授与式のためだ。あの楠本イネの父、ヴュルツブルク出身で長崎・出島に滞在した医師兼博物学者シーボルトに因む。毎年フンボルト財団(こちらも独政府が国際研究協力を目的に一九五三年設立した公益財団)総会の折、「日独両国の文化・社会の相互理解に貢献し、学問上優れた業績をあげた50歳以下の日本人研究者」(専門分野は不問)一名に大統領が直接贈るのがしきたりである。

四月にまず駐日ドイツ大使から内定のお祝い書簡が届き、続いてボンにある財団担当者とメール等で入念な打ち合わせが始まった。当日のドレスコードを問い合わせると、歴代男性受賞者はスーツだったが、「民族衣装をお召しになると嬉しい」とのこと。えっ、ここだけジェンダーが入るのは変だよね、女性もスーツで十分でしょう? と、周囲に同意を求めたが、皆さん「大統領から頂くのよ、当然和服でしょう」とにべもない。かくして五月は手結び着付けの特訓をする羽目に相成った。

「答礼スピーチも負担なのに、和装は小物も多いし、荷物になるし、フェアじゃない!」と内心憤慨し、当日も一瞬間に合うか不安になったが、何とか独りで形にした。でも認めよう、確かに和服の効果は絶大でした! 紗の着物で宮殿に入った時、私に向けられた皆さんの嬉しそうな表情といったら! もっとも私を知るあるドイツ人同僚は、「中身はもう完璧ドイツ化しているのに、外見だけ伝統的な日本人女性を装ったって、誤解の種を蒔くだけ」と懐疑的だった。事実、私も晩餐会は当然のびのび動ける洋装を選んだ。

授賞式はガウク大統領とパートナーのシャット女史をはじめ、シュバルツ財団会長ご夫妻、中根在独日本国大使や独政府官僚らが列席し、厳粛だが和やかな雰囲気で行われた。ガウク大統領直々の祝辞は、ゲーテやヘッセからの引用を散りばめ、文学的にも凝った素敵な内容だった(個人的にはリルケもお好きとのこと)。ちなみに前夜の年次総会オープニングのスピーチでは、化学教授でもあるシュバルツ氏が化学合成反応を人間関係に応用したゲーテの小説『親和力』を引き合いに出し、ドイツには研究者にも政治家にもいまだ「ゲーテファン」が生息していることが確認された。

答礼スピーチではまず、私の年頃で――「もちろん私の歳は申し上げませんけど」と皆さんの笑いを誘ってから――ゲーテ(言語学者のヴィルヘルムともどもフンボルト兄弟は彼の若い友達だった)とジーボルトが何をしていたかを振り返り、前者はシラーとの共同創作を開始、後者は大著『日本』の刊行準備を始めるなど、いずれも重要な作品執筆時期だったことを確認した(50歳以下という条件は、受賞を機にさらに良質な作品を発表する期待と義務を負う、と解釈できる)。

続いてドイツで学んだ先輩日本人女性研究者を想起し、日本の大学が女性の入学を拒否していた時代、単身かつ私費でドイツに留学した勇敢な女医・高橋瑞や宇良田唯らを紹介した。もっとも私自身はフンボルト財団と日本学術振興会という日独を代表する二財団に加え、ドイツ学術交流会からも支援を受け、育てられたわけで、明治の先達者の時代と比べて状況は改善されており、それに対する感謝は忘れない。だが、たとえば本務校の女性専任教員比率は一割程度、また実際、全三五名の受賞者中、女性は私を含め三名しかいない。その意味でこの受賞は大きな心の支え、研究の励みになる、と締めくくった。

スピーチ直後、シャット女史が握手を求めてこられ、引き寄せた私の耳元で内緒話を始めた。周囲が訝しむほど長くなったガールズ(?)トーク、内容は秘密! です。

副賞は一年間のドイツ研究滞在、いつ・どこで・どう使うかはまだ検討中。だがこれまでも研究対象としてきたゲーテとジーボルト家の調査はもとより、日独学術交流の懸け橋となれるような課題に挑戦したい。

(言語情報科学専攻/ドイツ語)

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