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教養学部報

第561号 外部公開

2012年ナバホの旅

田中伸一

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ナバホモニュメントバレーにて
ことわざには反対の意味を表すものがよくある。「渡る世間に鬼はなし」とはいうけれど、「人を見たら泥棒と思え」ともいう。ただ、鬼でないごく普通の人でも、居直って泥棒になり得る可能性を考えれば、両者は相容れないものではなく、人間の裏表の真理を描いているともいえる。

同様に、「似た者夫婦」という言い方がある。異なる個性であっても一緒に暮らしていくうちに似てくるわけだが、反対に「喧嘩するほど仲の良い夫婦」というように、全く異なる個性だからこそうまくいく場合もある。ただ、「近親憎悪」ともいうように、似ているからこそ喧嘩が絶えないのかもしれず、結局のところ「似た者夫婦」は仲睦まじいのか喧嘩が絶えないのか曖昧である。

また、「喧嘩するほど仲の良い夫婦」も実はタイプが似ているのか違うのか曖昧である。そう考えると、上の二つの慣用句も真逆というよりは接点を持ち、表裏一体の真理をついているともいえる。

結局、仲が良ければ似てくるだろうが、似ているからといって仲が良いとは限らないということである。仲良くなりたければ、自分を殺して相手に「同化」するか、相手を許容する個性に「異化」するか、あるいは距離を保って近づかないか、いずれかの道しかないのである。

ところで、私の専門は理論言語学(音韻論)で、言語の「音」の体系に関する形式理論的研究や、その生物学的基盤や認知科学的基盤などを探るのが仕事である。研究テーマもいろいろあるのだが、その一つとして、音に関する「同化」と「異化」の二つのプロセスの関係解明に取り組んでいる。従来は「同化」と「異化」は全く性質の異なる別々のプロセスだと考えられてきたのだが、実はこの2つは表裏一体の同じプロセスで、二つの音同士が近くにある場合に、言いやすさのために同化させるか異化させるかの選択肢が、言語に与えられているだけだと私は考えている。上の人間の場合と同様である。ただ、問題はその証明をどうやるかである。

やや詳しくいうと、同化というのは従来、音同士が隣接する(距離がゼロの)場合にのみ起こるとされてきた。たとえば、bet-「別」という形態は、単独で使う場合はbetuというように母音が挿入されて日本語らしく整形されるが、後ろに別形態が来る場合はbettaku「別宅」、bekkaku「別格」、bessatu「別冊」というように[t]が後続子音に同化する。しかし、後ろに来るのが濁音から始まる形態だと、*beddan「別段」、*beggou「別号」、*bezzin「別人」のように濁音 [d, g, z] がそれぞれ連続してしまうので×(*の印)が付き、これらを異化して(元に戻して)それぞれbetudan、betugou、betuzinのように母音を入れて距離を置かせる。つまり、異化も隣接する環境で起こるというわけである。

一方で、異化には近接効果があると従来から知られてきた。つまり、近ければ近いほど異化し、遠ければ遠いほど何も起こらないというものである。たとえば、外来語のグループ名に濁音の「ズ」をつける場合、「フォーリース」「ホールディンス」のように別の濁音が近くにあると「ス」に異化されるが、「アーズ」「ビーチーイズ」など距離があるとそのままである(「スティー・ジョブズ」は数少ない例外!)。中間くらいの距離だと「タイース」「ドャース」のように異化される場合と「キャンディーズ」「ビーーズ」のようにそのままの場合と、両パターンが見られる。これが近接効果である。しかし、同化は基本的に隣接の場合のみ起こるもので、こうした効果がないとされてきた。同化と異化が別々のプロセスであるなら、生じる条件が異なっていてもおかしくはないのである。

ただ、近ければ近いほど同化し、遠ければ遠いほど何も起こらないということがあっても、ごく自然なことであろう。「似た者夫婦」は一緒に暮らしてこそ成り立つ。もし本当にこの2つのプロセスが表裏一体で、単に言いやすさのために同化させるか異化させるかの問題だとすれば、同化にも近接効果があってよいはずである。

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ナバホの人と
そこで、やっと(?)本題になるのだが、この重要案件を検証する言語調査のために、アメリカのユタ州にあるナバホ族の居留区への旅を「敢行」することになったわけである。

ついでに、写真にあるような(テレビや映画でよく出てくる)モニュメントバレーやナバホの踊りを見たりする「観光」をしたことも白状しておく(どちらが「ついで」なのか曖昧なところはあるが)。ともかく、この言語には前寄りの歯擦音[s, z, tsh, ts, ts’]と後寄りの歯擦音[‘, “, ?h, ?, ?’]との二タイプがあり、一つの単語の中には同じタイプのものが出やすいということはわかっていた。つまり、単語の中で2つの歯擦音が前寄りか後寄りかで、タイプが同化するのである。

で、確かに隣接する場合はlee‘lee*.t*’ih「灰」やxos.ts’ooz「サボテンの一種」のようにタイプが同化しており、やや離れているlee.t*’o*‘「ミミズ」やtshe.zei「砂利」も同化している。しかしながら、Andrew T. Martinという若き言語学者も指摘する通り、もっと距離を置くとt*hi.ti.tshoh「トラック」やtsi.dil.ha.‘*ii「サソリ」のように同化効果がなくなり、異なるタイプの歯擦音が共存するということがわかった。つまり、同化にも近接効果があることが証明できるということである(ついでに、出てくる語彙がいかにも砂漠っぽいところにも注目!)。

このように、同化と異化という一見真逆に見えるもの、無関係に見えるものであっても、煎じ詰めていくと両者のミッシングリンクを浮き彫りにするロジックが見出せるかもしれない。学問の醍醐味はそういうところにこそあるともいえる。「可愛さ余って憎さ百倍」というように、人の「心理」も裏表だが、音の「真理」も似たようなものであろう。ただ、どういう場合に同化と異化のどちらになるのかという問題は残されているわけで、たぶん、二つの音の持つ内在的な力にもともと不均衡があれば弱い方が負けて同化し、力が拮抗していれば弱い位置にある方が負けて異化するのではと踏んでいる。そして、それを検証するのがまた新たな醍醐味となり、仕事がなくならずに済むのである。

(言語情報科学専攻/英語)

※表記できない文字(発音記号)が含まれています。紙面でお確かめ下さい。
 

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