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教養学部報

第561号 外部公開

〈本の棚〉斎藤兆史著 『教養の力―東大駒場で学ぶこと』

菅原克也

561-C-4-2.jpg表題に「教養の力」とある。教養の力、とは何だろう。

東京大学教養学部に在籍する学生たちの多くは、いつか豊かな教養を身につけたいと思うことだろう。教養など既に十分に身についたと思う学生がいれば、むしろ知的好奇心が不足しているのではと疑いたくなる。十代後半、二十代前半で教養の不足を感じないようではかえって心配である。

教養が足りない、教養を身につけたいという気持ちを抱かせるもの。それがひょっとしたら教養の力なのかも知れない。

教養はつねに不足を感じさせる。焦りをさそう。強く言えば劣等意識を刺激する。それが教養というものが人々の上にふるう力である。学生諸君にはあらかじめ言っておこう。老いてなお教養の不足は感じ続けることになる。一旦教養の力に絡めとられた上は、心の安らぐ時などないのだ、と。

つねに足りないと思う感覚、焦り、劣等意識。これに耐えつづけるのは大変である。もういいや、と思う気持ちが生じてもおかしくない。今の日本、いや世界で起こっている教養のかげりは、そのあたりにも原因があるかもしれない。教養がふるう力に耐えきれず、人々が教養の力から遁れはじめている。そんなの無視しておけばいいや、と腹をきめてしまえば、気持ちはかなり軽くなるだろう。ドストエフスキーが何者か知らなくても、とりあえず日々の生活に困ることはない。調べろ、というならインターネットで検索すればいい。

著者の斎藤氏は教養をめぐる現状への危機感から語りおこす。論点は三つある。教養の変質について。教養をめぐる制度(主に大学制度)について。そして著者の専門たる文学と語学教育についてである。斎藤氏は、教養というものが大学の制度のなかで輝きを帯びていた、最後の時代を見とどけた世代に属するであろう。そのことを深く自覚しつつ、斎藤氏は教養の魅力、教養の大切さを説く。

本書を手にとる十代、二十代の学生たちは、さっそく教養の力にさらされるに違いない。西田幾多郎はまだしも、阿部次郎、倉田百三と続けば不安が生ずるはずである。『三太郎の日記』など、私の父の世代の本棚にあった本なのだから、さすがに少しキビしいだろうと思う。斎藤さん、そのあたり少し手加減してあげてよかったかもしれない。

斎藤氏が説く教養の力とは、私がここに言う教養の力ではもちろんない。教養を支える知識や知的技術、教養が磨く人格、そうしたものが生みだす力である。私が感じ入ったのは「センス・オブ・プロポーション」。E・M・フォースターを援用しての議論だが、教養というものが授けてくれる力、教養によって磨かれる力を、とてもうまく言いあてていると思う。それって何? と思ったら本書を読んでみてほしい。

もう一つ感心したことがある。斎藤氏は、情報過多の時代における情報選別の方法を三つ挙げている。情報を選別できる力こそ、教養の力だという趣旨である。そのなかに情報の「たたずまい」ということばが見つかった。なるほど、そう言えばいいのか。「たたずまい」などという表現がさらりと出てくるあたり、これはまちがいなく教養の力である。

教養の力に耐えて、教養の力を身につけるにはどうすればいいか。斎藤氏の答えはしごくあたりまえ。古典に触れる、ということである。古典を砥石にしてみずからを磨き、目利きになることである。目が利くようになれば、情報の「たたずまい」も見えてくる。

やっぱり古典である。それこそ教養の力が猛威をふるうところである。がまんするしかない。古典を読み進めてゆけば「共通知」も見えてくる。ある時ふと、豊かに生きてるな、と思うこともあるだろう。

十代、二十代の学生たちには教養の力に耐えてほしい。それが選ばれて駒場にやってきた者の noblesse oblige なのだと、私は思う。(集英社新書、735円)

(超域文化科学専攻/英語)
 

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