教養学部報
第562号
「教養英語」事始め――『教養英語読本』は「英語教育」をめざさない?
山本史郎
手前のカップは『教養英語読本Ⅰ』のイラストに用いたもの 英語には二種類ある。すなわち「実用」と「教養」である。教養英語は易しく、実用英語はそれとは比較にならないくらい難しい。
例えば、「実用英語」の代表格は新聞だろう。以下は、二〇一三年一一月四日付けの、イギリスの高級紙 Independent の見出しである。
'Bin Laden has won, they confiscated my honey': Outspoken academic Richard Dawkins in airline security Twitter row over jar of honey.
一読してニヤリとした人はすごい! Bin Laden って誰? Dawkins って何者? どんなパーソナリティ? 'confiscate'、'airline security'って何? なんで'my honey'が出てくるの? 空港でいったい何が起きたの? 何が問題なの?
しかも、じっくりと読んで理解できるという程度ではてんでお話しにならない。耳で聴いて瞬間的に反応できるのでなければ、「実用英語」がマスターできたなどというのはおこがましい。
ジャパン・タイムズを読むのは易しいかもしれない。NHKの国内ニュースなら聞いて分かるだろう。だが、ニューヨーク・タイムズを理解し、BBCの番組を楽しもうと思うなら――ましてや英米人と不自由なく、対等に話したいと願うなら、まだまだ前途遼遠だ。
「アメリカに十年住んではじめて、字幕を見なくても映画が分かるようになった」などとよく聞く。私自身、二二才の頃ロンドン大学に1年間留学し、講義やチュートリアル(二週に一時間の先生と一対一の対面授業)をもぶじにこなし、最後には先生が「こんなにintelligentな学生ははじめて」などと、エッセイへの感想に書いて下さった(!?)が、お恥ずかしながら、帰国する直前にBBCニュースを聞いてもちんぷんかんぷんだった。
「実用英語」というのはそんなものである。英米の文化そのもの、英米人が成人するまで経験してきた教育、蓄えてきた知識、生活そのもの――すなわち英米人としての自己が脳ミソの一角にしっかりと根を張ってはじめて、可能となるものなのだ。
だから、「何をおいてもコミュニケーションを」などという文科省のお題目は、知性ある東大生は眉に唾をつけて聞き捨てるのがよい。「ワタシニホンジン。トウキョウダイガクハ、ニホンイチノダイガクデス」程度の英語をすらすら言えるようになるのが英語教育の目標だなどというのは、愚民政策である。少なくとも、知性ある東大生には該当しない。
では、「実用英語」はどうすれば身につくのか?
週に一度九〇分の授業で「コミュニケーション」の授業に出ていればよい、などというのは幻想である。幸い、昨今ではポッドキャストなど、英語の音声材料は無限に提供されている。スマホやウォークマンに mp3ファイルをごっそり詰め込もう。毎日同じものを寝ても覚めても、何時間も、何時間も、繰り返し、繰り返し、繰り返し聴く。すると、不思議なことに音そのものが腹ワタに染みこんで、分かるようになってくる。
「実用英語」を身につけるのはそれほど簡単で、かつ難しいことだ。賢い東大生には難しいかもしれないが、バカになってひたすら繰り返さないことにはものにならない。週に一度の英語会話の授業は刺激やきっかけにはなるだろうが、それ自体の効果は限られているのだ。
では、週に一度の英語の授業では何をなすべきか? ジャーン! ――そこでいよいよ「教養英語」の出番となる。
『教養英語読本I』の一四六、一四七ページを見てほしい。英語の原文を読んで、'collective neurons'や'society of neurons'が何を意味するのか説明できる学生は少ないだろう。
しかし、それが大学に集っている人々のことを比喩的に述べているのだということを教われば、ウォー! そんな意味になるのか! と驚きを体験するだろう。コトバというのはそういうふうに意味を表現できるのかと感動するだろう。
そしてさらに、人間集団をニューロンの集合体として表現するのが、Dawkinsの『利己的遺伝子』の遺伝子プールと同じ発想なのだと分かれば、その学生の思考回路はぐんと複雑さを増す。それこそニューロンが増える。次に同じような発想を含んだものを読んで理解できるばかりでなく、世界に起きているまったく新たな現象を見たときに、そのような抽象的な発想をする頭脳の状態がそこに準備されるだろう。これこそが教養である。そして、それを若い頭脳に植え付けるのが教育である。
『教養英語読本』は「英語教育」を第一義的に目指さない。少なくとも、編集の中心をあずかった私はそのようには考えなかった。むしろ、大学生へのあるべき教育を、英語という媒体を通じてなすための材料を提供しようと思ったのである。
ただし、究極的には、実用と教養はコインの両面だ。プラトンの『国家』には、かつて人間は四本の手、四本の足の動物であったのが分裂して、男性と女性が誕生した、だから男女は合一をめざすという神話が述べられている。同じように、実用と教養はほんらい一なるものである。合体こそが目指すべき理想なのだ。
(言語情報科学専攻/英語)
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