HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報562号(2014年1月 8日)

教養学部報

第562号 外部公開

ダンヌンツィオとはだれだったのか? ――駒場博物館 秋の展覧会開催記

村松真理子

562-B-4-1-01.jpg北イタリア、オーストリア国境からそう遠くはないガルダ湖畔の保養地、ガルドーネ・リヴィエーラ。美しいヴィラや19世紀末風のグランドホテルのたちならぶ湖岸道路からはずれて、丘をのぼっていくその中腹に、オリーヴ畑や庭園の緑に囲まれた「ヴィットリアーレ」と名付けられたヴィラが姿を見せる。その一見ものものしい門から中に入ると、次の言葉が私たちを出迎える。「我、譲りしものを有する」

門から入り、さらに中庭を囲んだ一群の建物を抜け、丘をのぼる通路をつたって庭園をさらにすすんでいくと、木々の間から現れるのは大理石のモニュメンタルな巨大な建造物。階段を昇りながらその円錐状の建物の空に向って開いた頂きにまで到達すると、前方に広がるのはイタリアで最大の湖ガルダの水の広がりと、その周りのアルプスに連なって行く山並みの緑だ。湖面には大きく突き出た嘴のような砂州が島のように中心へとてる。そして、その石の固まりの中央に眠るのが、この広大なヴィラと庭園の主人であった詩人、ガブリエーレ・ダンヌンツィオである。それぞれ東西南北の方向に彼を取り囲むように置かれた石の箱には、彼の友、同志たちの名前が刻まれている。

重々しい大理石と、空と、海を思わせる湖の水の広がり。その全体を構想し、国に寄付し、そこに自らの死後の住まいを定めた人物は、昨2013年に生誕150周年が記念されている20世紀初頭のイタリアを代表する文学者である。

『早春』『アルキオネー』などの詩集は音楽的なことばの響きで21世紀まで読み続けられ、『快楽』『罪なき者』『死の勝利』の初期三部作をはじめとする小説はほぼ同時代的にフランスでも、アメリカでも、イギリスでも広く読まれた。さらに当時国際的な女優として、ヨーロッパだけでなくアメリカやロシアでも知られたエレオノーラ・ドゥーゼに捧げ、彼女が初演した『フランチェスカ・ダ・リーミニ』など、劇作家としても多くの作品を書き、パリでも活躍した。

しかし第一次大戦の開戦後急遽帰国、イタリアの参戦を主張、さらには戦後イタリアの国民感情を代表するかのように、イタリアに帰属が認められなかったアドリア海沿いの「フィウメ」に向う。彼は二千人ほどの「義勇兵」を引き連れ無血入城を果たし、「司令官」として統治する……イタリア国軍からの砲撃後、彼はその町から撤退するが、「愛国詩人」としての知名度、名声はゆるぎないものとなる。生まれつつあるファシズムも、彼の動静に敏感であらざるを得なかった……。

彼はテクストを紡ぎつづけただけでなく、自らのことばを十二分に用いつつ、イメージのネットワークを築き、自らの身体と肉声で演じ続けた人でもあったのだ。そして、大衆にことばを放ち、イメージを演ずる行為の20世紀的な政治性と宿命とでもいうべきものを駆け抜けるように指し示してから、晩年の18年間は「語る石の本」と自ら呼んだ家と空と水の間に隠棲して過ごし、ファシズムイタリアの悲惨を見届けることなく、逝った。

彼のしるした歩みとスタイルとメディアを21世紀的視点から見直し、日本にも実は届いていたその声とイメージを改めて忘却から引き出す。それを通して、私たちのことばの持ちうる意味と力と私たちのいる場所を見直すために……。

そのような試みとして、この秋10月19日から12月1日(延長して13日)まで、駒場博物館で「ダンヌンツィオに夢中だった頃――ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(1863-1938)生誕150周年記念展」が開催された。彼の終の住処であり、図書館、アーカイヴを備える研究拠点であると同時に、広大な公園・劇場として開かれた場所でもあるヴィットリアーレ財団は、共催者として貴重な所蔵品やパネルを貸し出してくれた。庭園やダンヌンツィオが住んだ家の内部などを伝える写真、洋服、靴、インク壺、日本趣味の皿と漆器、地図、飛行機(模型)、美しい初版本などが、ダンヌンツィオの生きた時代とその息吹を感じさせた。
 ダンヌンツィオはどう読まれたか。その証言は、実は駒場の本たちからも得られた。このキャンパスは、実は旧制第一高等学校の敷地として整備されたもので、第二次世界大戦後、東京大学教養学部となったのだが。「一高生」たちの多くが、ダンヌンツィオを読み、夢中になり、その中には『海潮音』の上田敏や、漱石門下の文学者として知られる森田草平や生田長江のように翻訳紹介した者たちもいた(いや森田は訳するより先に『死の勝利』を模して、心中未遂事件を起こした。相手は「新しい女」平塚らいてふ)。

562-B-4-1-02.jpg展示された19世紀末のフランス語版や英語版は、駒場図書館の一高コレクションに残されているものだ。鴎外の読んだ美しい装丁の戯曲『フランチェスカ・ダ・リミニ』ドイツ語版は、本郷の東大図書館鴎外文庫の一冊。鴎外もダンヌンツィオの作品から戯曲を「秋夕夢」というタイトルで訳している。

では、ダンヌンツィオはどのように「待望」されたか。実は、彼が自ら日本に飛ぶつもりで計画した日欧の史上初連続飛行は、1920年に実現される。1月末から2月半ばにかけてローマを出発した11人の飛行士たちの中で、2人のイタリア空軍パイロットだけが5月末に駒場から近い代々木公園(当時は練兵場)の特設滑走路に到着する。そこには何万人もの観衆が集まり、歓迎したと言うが、彼らの大きな関心は結局は来なかったダンヌンツィオが今後、来日するかだったことが、飛行士たちの動向を連日報道する当時の新聞からうかがわれる。文学者としてだけではなく、行動する「ペンを剣に」もちかえた「愛国詩人」として、彼は広く日本で知られ、その後も待望され続けたのである。

こんにちのコピーライターよろしく広告のことばをつくり、映画のキャプションをてがけ、大衆への演説のレトリックとスタイルを呈示し、はたまたワイシャツや香水の自分のブランドを創設して事業に失敗するなど、彼の人生は波瀾万丈である。ただ、フィウメからの撤退後、ムッソリーニが政権をにぎるファシズムに傾斜するイタリアで、彼は情熱を家の完成に捧げたが、国民詩人としてまつりあげられたともいえる……。

562-B-4-1-03.jpg三年前から科学研究費補助金を得て、ダンヌンツィオの文学とメディア性について考えてきた。その成果を発表し、多くの人の協力を得て展覧会という形にまとめ、若手研究者たちと「研究会」としてテクストの翻訳や解説の冊子を今回つくった。多くの学内外の参観者が見に来てくれ、さまざまな感想を残してくれたのは、大きな収穫だった。

4月、10月、ダンヌンツィアと作曲家トスティをめぐる歌と詩のレクチャーコンサートは盛況であった(出演<b>テノール</b>小川桂一郎氏に感謝!)。11月の国際シンポジウムには、イタリアから1920年に飛んで来たフェラリン飛行士の息子さんまで来てくれ、イタリア大使、ヴィットリアーレ財団長であるジョルダーノ・ブルーノ・グエッリ氏を迎え、三島由紀夫の専門家である井上隆史氏とともに語ってもらった。

実は苦労したのは、若い、駒場の一・二年生をどう誘って、展覧会や講演会シンポジウムに来てもらうかだ。若い在学生が文化関連の催しや講演会に姿を見せない傾向はここ数年かなりはっきりしてきたようだ。それは駒場から「文化」が滅びるということなのか、それとも「文化」が別の媒体にスイッチされたのに、私たち教員や「大人」がアクセスできていないということなのか……。

文学研究はテクストに発する邂逅の連続だ。私にとって今回の展覧会準備ほど、その幸福を感じる経験は今までなかった。

ダンヌンツィオを介してはじめて親しくことばを交わした同僚の文理の先生方(文学・思想・政治・音楽、おしゃれ・靴談議、飛行機少年の過去、女性遍歴etc.)そして「博物館」という駒場の宝物! 学芸員の折茂克哉さんと「チーム」が私たち「ダンヌンツィオ研究会」の夢と妄想と空想を現実の空間で形にしてくれたのを目のあたりにしたときの驚き(感謝!)。これこそ、森田草平、生田長江たちの一高という場以来の出会いと共同作業と継承する教育研究のぜいたくな実験場だ。学生の皆さん、まだなら是非一度は訪れて!

ダンヌンツィオ展は、1月下旬から3月初めまで京大博物館に場所を移す。秋の駒場でダンヌンツィオと会えなかった方は、どうぞこんどは冬の京都にお訪ねください!

(地域文化研究専攻/フランス語・イタリア語)
 

第562号一覧へ戻る  教養学部報TOPへ戻る

無断での転載、転用、複写を禁じます。

総合情報