HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報562号(2014年1月 8日)

教養学部報

第562号 外部公開

〈本の棚〉高橋哲哉著『犠牲のシステム 福島・沖縄』

星埜守之

562-C-4-2.jpg三・一一の東日本大震災から、二年八ヶ月あまりの月日が流れようとしている。激しい揺れ、想像を絶する巨大な津波、そして福島第一原子力発電所の重大事故と放射線被害に戦慄し、言葉を失い、あるいは言葉を探してこころをざわめかせた日々。

しかしいま、この東京(あるいは大学キャンパス)では変わらぬ日常が戻ってきたように緩やかに時間が流れ、ネオンの街は人波で賑い、わたしは授業やそのほかの学務に追われながらその日その日を見送っている。もちろん、津波で家を失い、放射能汚染で故郷を追われた多くの人々の別の日常が果てしなく続いていることは誰でも知っているだろうし、深刻な汚染水問題や元首相の「即脱原発」発言がマスコミで取り上げられれば、誰もが注目をするだろう。けれども、そういったすべてがなにか、日常に埋め込まれた「風景」のように通り過ぎているように感じてしまうのはわたしだけだろうか。

そんな折に、昨年の一月に刊行されたこの本をふたたび開いた。第一部「福島」に収録された「原発という犠牲のシステム」(二〇一一年六月に雑誌掲載された文章の再録)には、著者が震災三ヶ月後に故郷の福島県を訪れたときの記録に続いて、こう書き記されている――「少なくとも言えるのは、原発が犠牲のシステムである、ということである」。

これに続くのが、次の一文である――「犠牲のシステムでは、ある者(たち)の利益が、他のもの(たち)の生活〔……〕を犠牲にして生み出され、維持される。犠牲にする者の利益は犠牲にされるものの犠牲なしには生み出されないし、維持されない。この犠牲は、通常、隠されているか、共同体〔……〕にとっての『尊い犠牲』として美化され、正当化されている」。

本書は、このような犠牲のシステムが、福島と、普天間基地移転問題で揺れる沖縄で、いかに理不尽に作動し、「無責任の体系」として存立しているかを検証し、「犠牲のシステム」そのものをなくすことを展望するための出発点を描き出そうとするものである。

また、第二章ではさらに具体的に、「犠牲のシステムとしての原発」の生み出す複合的な犠牲の様態が語りだされており、「過酷事故」、「放射能被曝への不安」から、「被爆労働者」、「原発は『核の潜在的抑止力』?」といった見出しを追ってゆくだけでも、原発のはらむさまざまな次元の問題点が、ほぼ網羅的に論じられていることがわかるだろう。さらに第二部の「沖縄」では、明治政府による琉球処分以来の歴史を日米による植民地史として跡づけながら、普天間基地移転問題の背景にある戦後日本のなりたち――「沖縄の犠牲なしに戦後日本は成り立たなかった」――があらためて焦点化されてゆく。

ところで、わたしはさきほど「風景」という言葉を使った。しかし、こうした感じ方は、本書で批判的に検討されている「無意識の植民地主義」への、そして「無関心だったこと(であること)の責任」への退行ではないか。福島や沖縄を「犠牲」にして「緩やかな時間」を享受する構造はなにも変わっていないのではないか。本書を読み終えてわたしは、これらの問いとともに、ふたたび「出発点」の前に立ちすくんでいる。では、この地点から、わたしはどう歩みを進めてゆくのか。 

著者が「犠牲のシステム」と呼ぶものは、もちろん、人類の歴史上、いたるところに存在してきたはずだし、近代以降であれば、奴隷制、植民地主義、独裁国家、あるいは資本主義そのもののさまざまな様態のなかで、それは作動してきただろう。であるならば、個々の「犠牲のシステム」を通貫するものはなにか。そう、あらたに問うこともできるかもしれない。あるいは、本書からも垣間見える別の次元の問題、人間にとってそもそも「犠牲」とはなんなのかをさらに問うこともあるだろう。十字架にかけられたイエスの犠牲とは、あるいは、やむにやまれぬ思いで「みずからの生活を犠牲にして」被災地に赴いた多くの人々における犠牲とは……。

だがまずは、福島の、沖縄の語る言葉に、また沈黙に、わたしはあらためて耳を傾けたい。この「犠牲のシステム」のなかにいるものとして。〈集英社、777円〉

(言語情報科学専攻/フランス語・イタリア語)

 

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