HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報564号(2014年4月 2日)

教養学部報

第564号 外部公開

〈本の棚〉 奇跡へのガイドブック

髙田康成

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村松真理子著
『謎と暗号で読み解くダンテ《神曲》』
〈角川新書、820円〉
グローバル、グローバルと草木もなびく今日この頃、アングロサクソン的世界支配がもたらした言語文化的状況が否応なくデフォルトとなっております。言語政策の観点からしますと、この未曾有の状況はいろいろな可能性を秘めます。英独仏語は、旧制高校の時代に栄誉ある帝国主義国家の言語として「甲乙丙」と分類され、新制大学では英語が「第一外国語」、独仏が「第二外国語」と区分けされました。現行の「初修外国語」の明確な定義は寡聞にして詳らかとしませんが、英語がデフォルト的共通語とするならば、その他の外国語はなべて等しく横並びという原理的ヴィジョンもあり得ましょう。そしてこのことは、たんに外国語の問題に限られるものではなく、古来、海外から文明文化の英知を学び続けてきた日本文化にとって、重大な問題であることは改めて言うまでもありません。村松真理子氏のダンテ入門書は、このような状況にあって、きわめて時宜をえた好著と言えましょう。明治以来ダンテはそれなりの人気と関心を集めてきたわけですが、英独仏という帝国列強の文物に比べますと、ようやく一八六一年に独立を成し遂げたイタリアの文物はどうしても分が悪い。即席の近代国家を目指した富国強兵策の日本にとって、産業革命を果たした西欧近代後期に目が向いてしまったとしても無理からぬこと。とはいえ、そもそも西欧というのは、古代中世近代というダイナミックな構成をもつ一つの運動体であり、近代後期だけに目を奪われるとすれば、木を見て森を見ぬに等しいと言わねばなりません。ゲーテはたしかに偉大ですが、一三〇〇年という中世の終わりにして近代の曙を見はるかす一大転換期に、壮大な言葉の建築物を残したダンテを見ずして西欧を語るとすれば、やや危ういと言わざるをえません。

いうまでもなく、『神曲』について入門書を書くのは至難のわざです。たんに壮大な作品というだけでなく、われわれには馴染みの薄い約束事やいわずもがなの教養や知識がそこかしこで要求されるからです。「地獄」「煉獄」「天国」の三層構造――同じ三層構造の駒場でどこが地獄か天国かは問わない――から成る『神曲』のうち、特に後者二つは近代人には疎遠なため、いきおい易きについて「地獄」篇のみを扱うという逃げ道がないではありません。村松氏のダンテ入門書は「地獄」はもとより、「煉獄」と「天国」それぞれを等しくバランスよく語って見事であるばかりでなく、数あるエピソードのなかで扱うべきものの選択にも優れる。

ダンテの『神曲』は、著者も述べるように、古典古代ラテン文化とキリスト教文化を総合した稀有なる作品にほかなりません。「地獄」篇が、叙事詩という古典古代文学の最高位のジャンル(例『アエネーイス』)に付き物の「冥界降り」に由来するとすれば、「天国」篇は、ドリーム・ヴィジョンという中世キリスト教文学に特有のジャンル(例『哲学の慰め』)が能くする「魂の天上への飛翔」譚に基づきます。ダンテの豪胆な独創は、「冥界降り」の主人公のように生身の個人(一三〇〇年のダンテ自身)が、「天上への飛翔」さながらに、超越的な永遠の世界すべてをその目で目撃しながら経巡るという前代未聞、空前絶後の物語構造を実現したという点にあります。近代的にいえば、写実主義と超現実主義が寸分たがわず同居するような世界なのです。それだけではありません。古典文学では題材に応じて三種の文体(平俗、中間、崇高)を使い分ける約束があり、叙事詩は崇高体と決まっておりました。神の讃歌である叙事詩でありながら、神の愛が卑小な存在であるダンテ個人を救いたまう、そういう時と永遠の双方を同時に歌おうとして、ダンテが想到した工夫は叙事詩を平俗体で歌うという曲芸でした。『神曲』の原題は「神聖喜劇」の謂ですが、神が演出した作品は「喜劇」であり、それは平俗体で書かれるという含意もあったのです。この力技のデパートは、中世末のイタリアに居合わせたダンテという大胆不敵な詩人が起こした(著者も言う)「奇跡」といって間違いありません。村松氏の好書を片手に、この世界史レベルの奇跡への旅に是非お出かけください。

(グローバルコミュニケーション研究センター)
 

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