HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報566号(2014年6月 4日)

教養学部報

第566号 外部公開

〈本の棚〉品田悦一著『斎藤茂吉 異形の短歌』

エリス俊子

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〈新潮社、1300円〉
本書は、「国語」の授業で習った短歌を生き返らせてくれる。斎藤茂吉の名は、『赤光』の歌人として「アララギ」、「実相観入」といった用語とともに受験生の頭のどこかに刻まれていることだろう。著者が入念に調べ上げた通り、たしかに斎藤茂吉は近代短歌を代表する歌人として、石川啄木らと共に数多くの「国語」教科書に登場し、とりわけ一九六〇年代以降、「死にたまふ母」は戦後教育が掲げるところの「人間形成」に寄与する好素材として、その位置を確固たるものとしてきた。

そんな読み方を一蹴すべく、本書の著者品田悦一氏は斬新な眼で茂吉のテキストに目を凝らす(「テクスト」と言いたいところだが、すべての教科書(テキスト)は〈ことばの織物〉(テキスト)であり、「テキスト」と「テクスト」を使い分けるのは邪道だと言う品田氏に従うことにする)。茂吉の歌のことばの一つ一つに向き合い、それが「歌」となって顕現するところに見えてくるものを丁寧に解き明かす著者の手つきは鮮やかだ。茂吉の語彙選択の独自性、その歌に見られる文法上の歪みがもたらす効果、語彙の構成によって提示される意味と、音の連なりが生み出す意味との緊張関係あるいはその相乗効果など、分析のメスの入れかたは多岐にわたる。文学のvirtuosoの演奏と言いたい。

目から鱗の連続である。冒頭で「めん鶏(どり)ら砂あび居(ゐ)たれひつそりと剃刀研人(かみそりとぎ)は過ぎ行きにけり」という不思議な歌を紹介し、茂吉の歌の魅力を存分に教えてくれる。

雌鶏が砂浴びをしている、そこを研ぎ屋が歩いて行く、と言っているだけの風景が、静謐な空気の中に濃密な緊迫感をはらんだ異様な出来事として読者に突きつけられ、日常が日常のままに「異化」されるさまを、「剃刀研人」という語の禍々しさ、「居たれ」という已然形の落ち着かない使い方(後に「已然形露出」として説明される)、「ひそやかに」ならぬ「ひつそりと」という非万葉語の使用、この語の中の「そりと」の音が「めんどり」と「かみそりとぎ」とに反響し、一首があちこちで不協和音を奏でながら一つのフォルムとして完結してしまっている点などから解き明かす。

茂吉が対峙し、その裂け目を凝視することで切り取ってみせた日常の断面は、茂吉の目の力と同等の強度をもつ。著者いわく、それは、〈世界があること〉と〈自分がいること〉が同時にひらけてくるような次元であると。

とはいえ、本書の圧巻はなんといっても「死にたまふ母」五十九首の読みが披露される第三章である。「学校で読まれてきたようには読まない」と著者は断る。それがどういうことかは本書を手にとって読んでみればよい。とにかくおもしろいこと、そしてこのあまりにもよく知られた連作の凄みがどこにあるかがひしひしと伝わってくることは請け合ってよい。読者の役割とは、「斎藤茂吉」という役を主人公に割り振った脚本を演出することなのだと著者は言うが、品田氏が演出する物語には実に説得力がある。

主人公「斎藤茂吉」の心の様態、その葛藤、身体の置き具合、眼差しの向くところ、もの言わぬ病人に見つめられて込み上げてくるやるせなさ、やがて焦点が合わなくなった「母が目」に顔を近づけるその姿、そしてついに反応がなくなった母の顔を黙って撫りつづける手の感覚。その一つ一つがいかに精巧に歌い込まれているか、そしてその中に織り込まれる、かの有名な「のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳(たらち)ねの母は死にたまふなり」が描き上げる母消滅の情景の宇宙的な広がりがどこから来るのか。

唸りながら、読者もまた主人公に寄り添って、ぞくぞくとする思いで読み進めることになろう。母危篤の報に接して不安に心揺らぐ感覚をうたった第一首の「ひろき葉は樹にひるがへり光りつつ」でハ行音に絡まれた揺れる光の表象が、作中数々の変奏を経て「ははそはの母は燃えゆきにけり」のハ行音と、燃えたぎる炎の表象にまで高められ、五十九首の最後は、すべてが終わってしまったあと、一人膳に向かい「ははそはの母よははそはの母よ」と涙流れるままに母を呼ぶ声で終わる。品田劇場、必見。

(言語情報科学専攻/英語)

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