HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報572号(2015年2月 4日)

教養学部報

第572号 外部公開

〈駒場をあとに〉 「在日日本人」教師としての16年

松井哲男

572-D-3-1.jpgついに私にも駒場を去る日が来ました。私が駒場に赴任して来たのは一九九九年の四月ですので、それから一六年間駒場でお世話になったことになります。これは他の先生と比べてそれほど長い期間ではないと思いますが、それまでいろいろなところを転々と渡り歩いて来た私には、駒場はこれまでもっとも長く居着いた場所となりました。私にとって駒場は、それだけ居心地の良い場所だったということになります。この間お世話になった教職員の皆さん、研究室で一緒に苦楽を共にした同僚・院生の皆さん、そして私の講義を清聴してくれた学生の皆さんに、心から感謝します。

私が駒場に赴任するまでの経歴については一五年前の学部報記事「私の世界線」(四九〇号)に書きました。要約すると、京都大学理学部を一九七五年に卒業後、名古屋大学理学研究科で一九八〇年に博士の学位をとり、それから渡米して、一三年間アメリカで研究生活を送りました。スタンフォード大学、カリフォルニア大学のローレンス・バークレイ研究所(現在は国立研究所)でそれぞれ二年間ポスドクとして修行を積んだ後、MITの核理学研究所(LNS)に常任研究員(Research Scien­tist)として暖かく迎えられ(二年後にPrincipal Research Sci­entistに昇級)、理論物理センター(CTP)ではたくさんの高名な先生に囲まれて七年間研究を行うという幸運に恵まれました。そして、一九九一年の湾岸戦争とソ連崩壊の年にインディアナ大学に准教授として赴任し、これから落ち着いて研究と教育に打ち込もうとしていた矢先、突然、京大基礎物理学研究所に招聘され、永住する気になっていた家族の反対を押し切って、一九九三年の夏に長い滞米生活を終えて家族で帰国しました。そしてそれから五年半後に駒場に赴任して来た訳です。

ですから、駒場に赴任して来た時は、日本ではまだ教育経験が全く無く、それどころか日本の生活慣習にもまだ慣れきっていない「在日日本人」という表現がピッタリの私でした。よくそんな私を採用してくれたものだとたいへん幸運に思いました。というのは、私は前々から駒場の核理論研究室に憧憬を抱いていたからです。学生のとき購入した野上茂吉郎先生の名著『原子核』(裳華房)には、その後長い間お世話になりましたし、駒場の核理論研究室は、戦後の長い間、日本の核理論の多くの傑出した指導者を生んだ研究拠点の一つでしたので畏敬の念を持っておりました。ですから、この伝統ある研究室に招聘されたことを心から光栄に思いました。

私が赴任してから嘗ての栄光の研究室の再興とまではいきませんでしたが、何人かの大学院生を迎え入れ、その卒業生の何人かが現在も立派に活躍していることを頼もしく思います。その多くは、就職難の中、私と同じように海外に積極的に活路を求め、国際環境の中で育っています。最近、「グローバリゼーション」という経済用語が大学でも頻繁に聞かれますが、元々、科学や学問に国境はありません。国際的な環境で研究を行うのは研究者として当然のことで、海外の研究者と交流するコミュニケーションの能力を養うことは非常に重要です。いま海外で研鑽中の卒業生がいつかまた戻って来てくれて、駒場の原子核理論研究室の伝統をどこかで引き継いでくれることを願っています。

もう一つ私が駒場に憧れていた理由は、駒場の先生は東大生の最初の前期課程教育を行うことをその重要な任務としていることです。私が京大に入学したとき手にした本には駒場の先生の書かれた立派な教科書がいくつかありますが、それらは駒場での講義を元に書かれたものが多かったと思います。私の大学での教養課程の講義と違って、良い講義が多くて東大生はたいへん恵まれていて羨ましく思いました。後で考えてみると、特に研究者になる場合、むしろ自分で悩み・考え、自分で考えたことを他の人にうまく伝えることを訓練することの方がもっと大事だとおもいますので、この点で東大生が本当に恵まれていたかどうかはわかりません。学生さんには、単なる点取り虫になるのではなく、失敗を恐れず、友達と一緒に考え、新しいことにチャレンジする精神を身につけてほしいと思います。

よく、講義から一番多く学ぶのは、それを聞いている学生ではなく、講義をしている先生の方だ、と言われます。アメリカで多くの先生からそう言われましたし、私がお世話になったMITのある先生は、研究でも本当にインパクトの大きい新しいアイデアは、研究のみを行っている研究所からはあまり出てこなくて、教育も行っている大学の研究者から出て来ることが多い。どのような初等的なことでも教えることが研究者として成長する上で大事である、ということを強調されていました。それで私も少し教育に目を向け始めました。駒場では高校を卒業したばかりのいわば幹細胞のような学生に講義を行う訳ですが、その責任は重大です。もちろん全ての学生を満足させるような講義は不可能だと思いますが、何がわからないかを学生の目線から考えることも大事だと学びました。しかし、最も大事なことは、教えていることを自分自身で最も面白いと感じることで、自分で本当に面白いと思うことは、学生にもわかってもらえると信じています。そして、その情熱をなくしたときは、もう教える資格が無いのかもしれません。

停年まで三年を残して駒場を退職しますが、これからも教える(学ぶ)情熱を持ち続けたいと思っています。日本に戻って来ていつの間にか二一年が経ちましたが、まだ私の中では二重国籍のような気持ちが残っています。滞米生活を一二年間共にした家内はもうこの世にいませんが、こんな私や家族を励まし続けてくれる海外の友人もいます。人生の曲がり角に立って、これからまた始まる新しい冒険に、駒場での一六年間の教師生活から得たことが生かせればと願っています。

(相関基礎科学系/物理)

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