HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報574号(2015年5月13日)

教養学部報

第574号 外部公開

<本郷各学部案内>文学部

林 徹

文学部はどんなところか
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/

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ヒッタイト語の資料と教材
文学部には二七もの専修課程があり、ひと言でその特徴を描くことは到底できないが、名前からわかるように、そこで学ぶことの中心には「文」、つまり言葉があるように思う。

「言葉とは何か?」と問われて、答えは自明のように感じられるかもしれない。確かに私たちは、毎日言葉を使って生活している。ある意図を持って言葉を発し、また、他人の言葉からその意図を理解する。だが、本当に自明か。
例えば、「私は馬鹿だ」と発言したとしよう。聞き手が日本語の知識を持っていれば、「xが私であり、かつ、xが馬鹿であるようなxが存在する」ことと理解できる。「私」は一人称表現で、「一人称」とは「話し手」のことだから、「話し手は馬鹿だ」ということになる。およそすべての人は言葉を発するから、「私は馬鹿だ」は「(言葉を発する)すべての人は馬鹿だ」ということになるが、果たしてそうだろうか。

「私」が「話し手」を表すと言う場合、それは「話し手」一般のことではない。「私は馬鹿だ」という具体的な一回限りの発言をした「話し手」のことである。書くこともまた発言と考えれば、この場合の「私」は、この文の書き手である林徹のことである。林は六二歳の男性で、教養学部から依頼された原稿を書いてはいるが、締切を過ぎても何を伝えたいかを整理できず、だらだら書いている。この体たらくに、林の心にある感慨が浮かびあがる。そういう状況がわかってはじめて、今回の「私は馬鹿だ」が理解できる。つまり、言葉は言葉だけでは伝わらない。発言がなされたときの状況や背景がわかって、ようやく伝わるのだ。

今、言葉を取り巻く状況や背景を「コンテクスト」と呼ぶことにしよう。言葉は、その成分のすべてではないものの、文字により時空を超えて共有されることができる。しかし、発言を理解する上で不可欠のコンテクストの大部分は、発言とともに失われてしまう。
話し手が親しい人ならば、コンテクストを想像することは容易だろう。しかし、時間的、空間的に離れるにつれ、コンテクストの再構築は難しくなる。そして一定限度を超えると、普通は不可能となる。その不可能に挑戦しているのが、文学部における学問である。
対象は、紀元前十数世紀のヒッタイト語の粘土板から、国内外の歴史資料、古今東西の著作や作品、さらには、アンケートや日々ネットに流される膨大な量のメッセージに至るまで、多岐にわたる。これらに記された言葉から、文章に残るコンテクストの痕跡を手掛かりに、同時代、同地域、同作者の言葉とも対照させつつ、また社会で共有される知識や考え方をも考慮しながら、ジグソーパズルを組むように、コンテクストを再構築していく。

コンテクストの再構築により明らかにしたいものは、専門分野によりさまざまだ。過去の出来事や他人の考え、あるいは、実在しない人々の物語さえ含まれる。しかし、各専門分野が築き上げてきた理論に基づきつつ、合理的な推論を積み上げていくというジグソーパズルの解き方は、専門の違いを超えて、驚くほど似ている。

実は、どんなに頑張って資料を集めても、必要なピースがすべて揃うことは稀だ。そんなとき、足らないピースを補うのは感性しかない。科学は実証的である必要がある。しかし、表面的な行動だけでなく、その思想や感慨にまで踏み込んで、人間(=他人)を理解するためには、プラスαがどうしても必要だ。文学部は、科学的合理性を学ぶとともに、感性も鍛える、そんな場所ではないかと思う。

(文学部/言語学)

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