HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報575号(2015年6月 3日)

教養学部報

第575号 外部公開

<本の棚>櫻井雅人、ヘルマン・ゴチェフスキ、安田寛 著 「仰げば尊し─幻の原曲発見と『小学唱歌集』全軌跡」

菅原克也

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(東京堂出版、三五〇〇円+税)
仰げば尊し、と聞くと言うに言われぬ感情が沸きあがってくる。体育館・講堂のひんやりとした床と空気、ナフタリンと汗の匂いがするサージの制服、泣き腫らしたまぶた、帰り道の泥土、丸い筒に入れた軽い卒業証書。そうしたことが、あのピアノ伴奏の和音とともに一気によみがえってくる。「仰げば尊し」を学校教育の共通体験とする世代が、かつてはたしかにあったはずである。

その「仰げば尊し」の原曲がようやく突き止められ、あわせて『小学唱歌集』全三冊(一八八二〜一八八四年刊)の原曲がすべて分かったのだという。これは一つの学問的な事件である。三名の共著になる本書は、三名の当事者が事件の全容をほぼ余すところなく記していて読み応えがある。

「仰げば尊し」の原曲を
「卒業の歌(Song for the Close of School)」という。発見の経緯は本書を読んでいただければよい。実に興味深いエピソードにあふれている。

とくに音楽に関心はなくとも、研究を志す人間にはぜひ読んでほしいと思うところもある。地道な実証が、抽象概念をふまえることなしにはありえぬこと。概念の把握が、資料を博捜することに裏づけられるということである。

上に「仰げば尊し」の原曲、と書いた。では、「原曲」とは何か。本書は、そうした根本的な問いからはじめる。原曲という概念の扱いにくさを確認した上で、独特の樹形図を工夫し、『小学唱歌集』に収められた様々な曲の系統を明らかにしてゆく。その作業は綿密をきわめる。

もう一つ。本書の著者の一人ヘルマン・ゴチェフスキ氏は、歌とは何かを問い、次のように断ずる。
結局どの歌にしても本来の存在形式を記憶の中に求めなければならない。楽譜や録音は文化的にこの本来のものを積極的に支援するが、歌の実体は記憶である。

ゴチェフスキ氏によれば、唱歌の教科書としての『小学唱歌集』は「欧米の記憶を日本に移す」目的で編纂されたのだという。では、欧米の記憶とは何であったか。ゴチェフスキ氏は、十九世紀のドイツ語圏における歌の文化の歴史をたどり、プロイセンの「教育用民謡」が、ドイツにおける国家の形成にいかなる役割を果したかを論じる。歌はまさに国民の記憶となることで歌となったのである。「仰げば尊し」は、アメリカ・ニューイングランドで用いられた『ソング・エコー』という歌集から採られたが、日本においても、公教育の場に記憶の根を持つことで、それは歌となった。

ちなみに記せば、「唱歌」ということばは英語にもドイツ語にもならない、とゴチェフスキ氏は言う。また、『小学唱歌集』が成立した一八八〇年代の文脈を考えれば、「唱歌」はドイツの「Volks­lied」(民謡)の訳語だと考えるべきだとの説も示される。
音楽取調掛(とりしらべがかり)として日本の学校音楽に尽くした伊澤修二の蔵書を調べ、ウェブ上で一曲一曲古い楽譜を確認してゆくような地道な作業と、文化史的な大きな見取り図を示そうとする概念操作。本書はこの両者がうまく噛みあった優れた研究書である。

最後に私にとっての発見を記そう。本書を読んでゆくと「仰げば尊し」のメロディーは平凡だと、さりげなく書いてある。日本において「仰げば尊し」の特徴として受容されたものは、様式の特徴にすぎないのだともいう。そうか、平凡なのか、と私などは眼をひらかれる。

実は、このことは歌詞にも言える。本書が「仰げば尊し」の歌詞の分析を欠いているのは残念だが、歌詞もまた平凡であり、様式としての特徴を持つにすぎないのである。

こくみんの共通体験として成立する歌の核に平凡さがある。このことは、もう少し大きな文脈のなかに開いてゆけるように思う。

(超域文化科学専攻/英語)

 

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