HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報576号(2015年7月 1日)

教養学部報

第576号 外部公開

<本の棚>近現代絵画は社会の鏡である

加藤道夫

絵画を見ることは難しい。そう感じている人も少なくないだろう。特に近現代絵画となれば、なおさらである。

なぜなら、画像は、言語に比べてはるかに冗長であり、人間は、可能な限りその視覚情報を圧縮する必要に迫られるからだ。

仮に街中で動物らしきものを見たとしよう。おそらく、危険かどうかがまず問われるだろう。次に必要に応じて犬か猫かを区別する。日常の視覚情報の処理=理解は、通常このあたりで中断する。日常生活を思い出してほしい。自分の見た光景を画像として再現できる人は少ないはずだ。

それでは、絵画を見る際において必要な視覚情報の処理=理解とは何だろう。この問題は、絵画を鑑賞する側だけでなく、絵画を制作する側にとっての問題でもある。

本書の前身である『まなざしのレッスン1』でも、古典絵画の理解=見方が問題とされた。要約するなら、この時期の絵画では、似ていること、すなわち類似が、絵画理解の最も重要な手がかりだった。しかし、それだけでは十分ではない。絵画の主題あるいはテーマとなった物語(歴史や神話)を理解するには、描かれた人物が誰であるかをより詳細に同定しなければならない。そのためには、人物固有の付属物(アトリビュート)との対応が不可欠である。描かれた物語の理解が、絵画理解のゴールだとすれば、絵画対象が同定できれば、どう描いても同じである。しかも類似が尺度だとするなら、絵画は一九世紀半ば以降に普及した写真に勝てない。もはや本物らしさだけでは絵画の存在理由にはならない。それではどのように絵画を描けばいいのか?

本書は、近現代絵画が抱えるこうした問題を以下の三部構成で教えてくれる。第一部は、主題あるいはテーマの変容である。筆者が説明するように、近代以前は、物語(歴史や神話)が主題の上位に設定されていた。その背後には、聖と俗、真正と偽り、形と色などの階層秩序的対立が存在していた。しかし、近現代絵画ではその規範が崩れ、主題選択自体が画家に委ねられる。

第二部は、造形と技法である。そこでは、どのように表現するかが、空間と平面、色彩と筆触、抽象と超越性、引用と遊戯性の観点から具体的に説明される。一例を挙げるなら、印象派は、形ではなく光を描くことで、刻々と移り変わる時間を表現した。ここでも古典的体系の階層秩序的対立を伴う規範が損なわれる。

ちなみに、何をテーマにどう描くかを理解することは、こうした規範の解体を生み出した文化的背景と関連する。そして、ついには絵画という領域の境界すら脅かすようになる。第三部ではこの点が明らかにされる。

このように、本書は、具体的作品の解説を通じて、近現代絵画の見方を教えてくれる。そこに通底するのは、近現代絵画が社会の鏡であるという視点だろう。そこに映し出される光景は、(筆者は明確に述べていないが)絵画の背景にある階層秩序的対立の無効化への試みという点で、脱構築の魁といえるかもしれない。

この変化は絵画の世界に限ったことでない。建築分野でも生じた。二〇世紀を代表する建築家として知られるル・コルビュジエも、近代の都市問題を建築によって解決しようと試みた。彼は当初、その手段を近代的理性に求め、機械を範としつつ、幾何学的立体に基づいて、装飾を排した目的(用途)に叶った建築(いわゆるモダニスム建築)を提唱した。

しかし、彼の建築を支えたピュリスム(純粋主義)美学は、優劣の順序を一部反転させたものの、新たな階層秩序的対立を生み出したにすぎなかった。この意味で、彼のモダニスム建築は、建築を構成する枠組みを根底から解体できていない。

その後、彼は転換する。それを可能したのは、絶えることのない絵画の探求と絵画制作の実践だった。そして、第二次世界大戦後のロンシャンの教会では、幾何学と反幾何学、機械と生命、ロゴスとエロスなどの階層秩序的対立が完全に解体され、無効化されたように思われる。つまり、ル・コルビュジエにおいては、絵画の実践が建築の脱構築の魁となったといえるだろう。

本書をきっかけに、読者が近現代絵画に親しむだけでなく、幅広い観点から社会を再考することを期待したい。

(広域システム科学系/情報・図形)

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「まなざしのレッスン2 西洋近現代絵画」
三浦 篤 著
東京大学出版会、2700円+税

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