HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報576号(2015年7月 1日)

教養学部報

第576号 外部公開

「一髙理科へようこそ─科学する心」展について

岡本拓司

於・駒場博物館(二〇一五・七・一八〜九・二三  開催)


東京大学教養学部は、一九四九年五月三十一日、第一高等学校(一髙)の校舎と校地を引き継いで発足した。一髙は翌年三月三十一日に廃止されたが、正門の紋章、一号館、九〇〇番教室など、そのかつての姿を伝える意匠や建物は、駒場Ⅰキャンパスに数多く残されている。駒場博物館は、それ自体が一髙時代に図書館であった正門脇の建物を拠点としているが、折に触れて一髙を主題とした展示を行っている。本年は、七月十八日から九月二十三日にかけて、「一髙理科へようこそ─科学する心」と銘打った展示が開催される。


一髙は、明治七年設立の東京英語学校を直接の祖とし、以後、東京大学予備門と呼ばれた時代を経て、明治十九年に第一高等中学校(この時期は高中、一中と呼ばれた)となり、帝国大学の直下に位置する高等教育機関としての内実を、規定上は備えるようになった。「中」の字がとれて第一高等学校と名称が変わるのは明治二十七年である。一髙とほぼ同時期に二髙から五髙、および山口と鹿児島にも高等中学校が設立されているが、皇居の近くに位置する一髙には文部大臣の森有礼は特に強い期待を寄せ、校旗として中に「國」の字を入れた「護國旗」を定めた。護國旗は今も、一号館の銀杏並木側の中央上方に掲げられている。

「旧制高校教養主義」とも言われる通り、従来、一髙の教育に関して特に注目を集めてきたのは、文学や哲学など、いわゆる文科系に分類される領域であった。しかし、科学・工学・農学・医学に進む若人の基礎教育を担った一髙理科にも、国家が強い関心を払っていたことは、現在博物館で管理している一髙旧蔵の多様な資料を見れば理解できる。今回の展示はこうした理工系教材を紹介しようとするものである。

目を引く機器としては、共鳴管を用いて音の周波数成分を可視化するケーニヒの音響分析器(十九世紀末)、鏡を高速で回転させて光速の測定に用いたフーコーの回転鏡の教育用モデル(二十世紀初頭)、高校の物理の問題に出てくるホイートストンブリッジが実用されていたことが実感できるさまざまなブリッジ類などがある。動力として電気が使えず、制御に電子工学が使えなかった時代に、それでも利用可能なあらゆる技術を用いて人々が多様な物理量の測定に挑戦していたことを伝える機器類である。科学史の知識が試される資料もあり、学際科学科科学技術論コースの学生の有志が展示制作に挑戦している。

戦前期から始まって現在にも引き継がれた工学系の基礎教育の主要な柱の一つに、図学(画学)がある。こちらも、自在画・用器画の見本や立体模型、生徒作品など材料は豊富にあり、一部3Dプリンターを駆使して、舘知宏先生が展示を組まれている。

工学教育に組み込まれながら、第一次大戦後は不要と判断されてしまった科目には測量がある。生徒は実習の課題として地図(実測図)を提出したが、優秀な作品は教育用掛図に直されて残り、教育の実態を伝えている。かつて実測図を調査していたころ、その中の一つに市川紀元二(明治二十七年卒。以下人名の下の年は一髙卒業年)の名前を発見したときには、「こんなところに」と驚いたものである。市川は帝大で電気工学を修めた技術者であり、日露戦争中、首山堡の戦い(明治三十七年)で抜群の殊勲をたてたことで知られる。戦前期、高等教育を受けた者の特権の一つに、一年志願兵という兵役に関する優遇措置があったが、実戦に役立つかどうかは疑問視されていた。市川も一年志願兵であったが、疑念を覆して余りある戦功を挙げ、惜しくも奉天で戦死した後には、銅像が東京帝大構内に建てられるほどであった(第二次大戦後、静岡県護国神社に移設)。一年志願兵の制度と高等(中)学校理科で測量が必修であったことには関連が考えられるが、展示では市川の例などをもとにして解説する予定である。

市川のように、人物に関する逸話に事欠かないのが一髙旧蔵品の特徴である。会場の一角には、ジャマン干渉計という、液体や気体の屈折率を測定する機器が展示される予定であるが、これは一髙の講師も務めた土井不曇(大正六年)が、相対性理論への反論のために行った実験に用いたものと同型である。大正十一年にはアインシュタインが来日し、土井の指導教官であった長岡半太郎(明治十五年)の、両者を会わせまいとする必死の努力も空しく、アインシュタイン自身の希望で対決が実現する。その顛末も展示で紹介することとなろう。

滞日中のアインシュタインの通訳を務めていたのも、やはり一髙卒の物理学者、石原純(明治三十五年)であった。石原は量子論・相対論研究の日本における先駆者であったが、アインシュタイン訪日時には、歌仲間の原阿佐緒に「死ぬ死ぬ」と言い寄って思いを遂げ(よい子は真似しないでね)、東北帝大教授の職も妻子もなげうった人物として、アインシュタインよりも注目されていたかもしれない。

石原は以後、科学ジャーナリストとして活躍し、一九三〇年代後半に、反科学・反西洋の風潮が強まると、研究の自由と、国際的な協力に支えられた「科学的精神」の尊重を説く論陣を張った。対するに、同時期から一九四〇年頃にかけて流行した「科学する心」の語は、これを説いた橋田邦彦(明治三十七年。昭和十二年から十五年まで一髙校長、同十五年から十八年まで文部大臣)によれば、西洋とは異なる独自の科学を「道」や「行」として築き、皇基を振起しようとするものであった。

橋田が盛り立てようとした国家の転覆を夢想した卒業生もいる。国崎定洞(大正四年)は、東京帝大の医学部に学んで助教授となり、留学中の昭和二年にドイツ共産党に入党した。昭和七年にはドイツ人の妻と娘を連れてソ連に入ったが、同十二年、折からの大粛清にあって銃殺された。ロシア革命や大恐慌を見て革命の実現を夢想しながら、実際には疑惑と裏切りの波に翻弄される若者も多かった。一髙理科を出て京都帝大で哲学を学び、科学論で名を馳せた戸坂潤(大正十年)も共産党に期待を寄せており、逃亡中の党の幹部の田中清玄を匿ったことがある。卒業生ではないが大正十四年から昭和七年まで一髙で教師を務めた岡邦雄は、戸坂らとともに唯物論研究会を設立して、科学史・技術史を開拓したが、昭和十三年、治安維持法違反の嫌疑で戸坂らとともに検挙された。岡は石原純を師と仰いだが、私生活でも石原に倣ったか、妻子を捨てて二十歳以上年下の桝本セツとの生活を選んでいる。

以上、展示計画のごく一端を紹介させていただいた。理系だから恋愛にはおくてで、文学や哲学には疎く、政治には無関心─そんな偏見とは無縁の世界が広がっていたことはお分かりいただけたであろう。どなたさまも、一髙理科へようこそ!

(相関基礎科学系/哲学・科学史)

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