HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報582号(2016年4月 1日)

教養学部報

第582号 外部公開

『渚にて』再訪─核・ハリウッド・オーストラリア (二〇一五年一〇月一八日開催)

西崎文子

アメリカ太平洋地域研究センター(CPAS)・
リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム」(IHS)共催

ソ連がスプートニク打ち上げに成功し、アメリカで「ミサイル・ギャップ」が騒がれるようになって二年後の一九五九年、ハリウッド映画『渚にて』が公開された。エヴァ・ガードナーやグレゴリー・ペック、フレッド・アステアなど大スターたちが共演するこの映画は、世界各地で華やかに封切られた。しかし、この映画の筋書きは少し変わっていた。第三次世界大戦が勃発して四七〇〇個以上の核爆弾が爆発、死の灰が北半球を覆い尽くして南下し、ついにオーストラリアのメルボルンに迫ってくる。その中で、避難してきた米国原子力潜水艦の艦長と地元の女性とが人類の破滅を前に恋に落ちるというのである。冷戦たけなわの時期、核による人類滅亡を描くことは、社会派監督・製作者として有名なスタンリー・クレーマー監督にとっても大きな挑戦であった。

広島・長崎への原爆投下から七〇年という節目の年に、アメリカ太平洋地域研究センターは、この『渚にて』の製作をめぐる論争や騒動を題材にしたドキュメンタリー『FALLOUT』の上映・討論会を開催した。オーストラリア出身のローレンス・ジョンストン(監督)とピーター・カウフマン(プロデューサー)の手による『FALLOU T』の一つの論点は、『渚にて』の原作者であるネヴィル・シュートとクレーマー監督との軋轢である。英国出身の技術者であり小説家でもあったシュートは、オーストラリアに移住後の一九五七年に『渚にて─人類最後の日』(日本語版は創元SF文庫)を発表し、放射能が迫る中での人々の生活を緊張感とともに描いた。その彼にとって、クレーマーの映画は受け入れられるものではなかった。原作では抑制された筆致で描かれていた主人公二人の関係が、映画ではハリウッド風メロドラマに変わったこと、人類絶滅という「放射能の恐怖」よりも恋愛に焦点があたったこと、キャスティングを含め米国色の強い映画となったこと……。『渚にて』に強い思い入れを持つシュートは、物語の根幹に大きな変更が加えられたと失望したまま、映画公開の翌年に死去した。

『FALLOUT』のもう一つの論点は、核戦争や放射能の恐怖をめぐる議論である。巨大な破壊力を持つ核爆弾が製造されていた一九五〇年代末期に、核の恐怖はどう捉えられ、どう伝えられたのか。娯楽性を求めるハリウッドで、恋愛と放射能による死との問題に向き合う術はあったのか。監督であれ俳優であれ、この映画に関わったものが直面した問題について何が言えるかを、このドキュメンタリーは多くのインタビューをもとに組み立てていく。シュートの娘やクレーマーの妻、出演女優の一人、歴史家やジャーナリストなどが、それぞれの視点からシュートとクレーマーの確執や、放射能の恐怖、核をめぐる国際情勢について語っていく。ナレーションを入れぬ議論はオープンエンドに終わり、さまざまな思索の糸が残されることになる。
『FALLOUT』上映の後、カウフマン氏、法政大学の川口悠子氏、中央大学の中尾秀博氏の三名にコメントと問題提起をお願いした。

まずカウフマン氏は、映画製作に至る背景を述べた。彼とジョンストン監督が『渚にて』をめぐるドキュメンタリーを構想したのは二〇年ほど前であった。英国は一九五〇年代にオーストラリアで核実験を繰り返しており、そのためマラリンガのアボリジニは土地を奪われ、放射能被害に苦しむことになった。この事実が明るみに出る中で、『渚にて』が描く放射能の恐怖が再認識されたのである。しかし、資金の問題もあり製作は難航した。この企画が再度動いたのは、福島の原発事故によって放射能被害に注目が集まり、また歴史家ポール・ハムが『ヒロシマ・ナガサキ』を出版したことが大きいとカウフマン氏は語った。

川口氏は、原作と映画がともに早い段階で核戦争や放射能の恐怖を描いたことは先駆的であると評価した。同時に、そこに提示された死や破壊がどれほど現実に近いのかとの疑問も湧いてくる。中でも「滅亡」が「消滅」と描かれ、そこに至る過程での「阿鼻叫喚」が捨象されていることは、この時期の米国における原爆の捉え方を象徴するのではないかと問題視した。その背後には、情報統制はもちろん、米国の投下責任の問題を意識させまいとする動きが存在していたのではないか。同様のことは日本社会にも起こっており、被害者の経験を共有しない非当事者として、いかに核被害の惨状を捉えることができるかが課題であると述べた。

中尾氏は、文学や映画の中に描かれた核兵器や死の灰の特徴を多面的に分析した。まず検討されるのは、fallout(放射性降下物)という言葉の遍歴である。広島・長崎から、度重なる核実験を経て、福島の原発事故にいたるまでfalloutという言葉はさまざまなイメージを喚起する。さらに、中尾氏は、核を扱う映画の中で使われる音楽について分析した。『渚にて』ではオーストラリアの愛唱歌「ワルツィング・マチルダ」が印象的に使われているが、明るいポップ系の音楽を使ったり、重厚な管弦楽曲が使われたりといったさまざまな特徴が見られるという。また、戦争を題材とする空想小説の流れにも注目すべきで、核開発以前からある「宇宙戦争」の系譜や「闇の奥」の系譜を辿ることも二つの『渚にて』を理解する手がかりとなると語った。

『FALLOUT』が多層的な問題を扱っていることもあり、フロアからの質問も多岐にわたった。「核、ハリウッド、オーストラリア」の相互連関を通じて核時代への新しい接近法が見いだせるのではないか─そのような期待がわいてくる上映会であった。末筆ではあるが、カウフマン氏の来日を可能にしてくださった豪日交流基金とリーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム」(IHS)に深く感謝したい。

(グローバル地域研究機構/歴史)

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