HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報583号(2016年5月11日)

教養学部報

第583号 外部公開

【シンポジウム】 映画『それでもボクはやってない』海をわたる!

阿古智子

~東アジアの法教育と大学生の法意識~

香港の雨傘運動、台湾のひまわり学生運動などに見られるように、東アジアでは草の根の民主化推進を求める声が高まっている。政治への無関心が顕著だと言われる日本でも、安保法制、原発、沖縄、歴史問題などに関するデモや活動が注目されている。2009年に裁判員制度が始まり、今夏には選挙権年齢が18歳に引き下げられることもあり、法や政治を教育の場でどう教えるかについて、幅広い議論が求められている。

中国、日本、台湾、香港の次代を担う若い人たちの法意識を探り、市民教育とナショナリズムの問題を展望しようと、2016年1月10日、東京大学駒場キャンパス一八号館ホールにて、市民公開・国際シンポジウム「映画『それでもボクはやっていない』海を渡る〜東アジアの法教育と大学生の法意識〜」を開催し、100名以上が来場した。本映画の監督である周防正行氏が登壇し、中国の法学者と対談したほか、本映画を中国、台湾、香港、日本の若者がどう見たのか、本映画を用いた授業を教員がどう展開したのかを紹介した。

本シンポジウムの目的の一つは、日本学術振興会科学研究補助金《「中国」をめぐるアイデンティティとナショナリズムの研究》の成果の一部を発表することでもあった。中国や中華圏の人々を対象にナショナリズムやアイデンティティを研究する方法として、私たちは(1)教科書や政策文書などの資料及び史料の分析、(2)さまざまな活動に対する参与観察やインタビューなどを含む質的調査を行った。中学・高校における公民、歴史、国語の学習を教科書や学習指導要領、各自治体や学校の取り組みを通して分析するほか、学校の課外活動、家庭での親子や親戚との交流、地域活動やボランティア活動、NGOの企画する人権学習プログラムなどへの参加状況、デモや抗議活動、陳情行動を通じた自己表現、サイバー空間における言説にも着目した。

本研究では当初、各研究者がそれぞれテーマを設定して研究を進めるだけでなく、合同でアンケート調査や授業観察を行う準備も進めていた。どのような切り口で、どのような学生を対象に行うのか、私たちは何度も話し合い、学校と交渉し、試験的に実地調査を行った。しかし近年、特に中国大陸において政治的引き締めが強化されていることもあり、学校に入り込んでの授業観察や継続的なインタビュー調査は、実現の見通しが立たなかった。私たちは試行錯誤と議論を重ね、最終的に、法学教育を通じてアイデンティティとナショナリズムの問題に接近することを思いついた。

法学教育といっても、テーマが大きすぎる。ならば、一つの映画を通して学生の法意識を探ろうということになり、痴漢冤罪事件を題材に刑事司法のあり方に疑問を投げかけた映画『それでもボクはやっていない』を使い、映画ワークショップを行うことになった。大学生(一部、大学院生も含む)に、教員のファシリテーションに従って映画について議論してもらい、その様子をビデオと録音テープに収めた。どのような学生が参加しているのかを把握するため、学生には自分の家庭環境や学歴、法や政治参加に対する考え方について、簡単なアンケート調査に回答してもらった。また、同じ儒教文化圏のコンテクストで比較を行うという考えもあり、日本の山梨大学でもワークショップを行った。全部で、中国大陸で76人、台湾で80人、香港で51人、日本で39人の学生が参加した。

公開シンポジウムでは、映画ワークショップで見出したことを、中国、台湾、香港、日本の研究者、教育者、学生が報告した。研究成果を社会に還元するという意味もあるが、私たちの研究に対する意見やアドバイスを、市民の皆さんからいただきたいという思いからでもあった。

私たちはこの研究を通して、より開かれた国際関係と市民教育を展望するために重要な概念や要素を見出し、外交・教育・国際交流に関わる政策への示唆を提示することを目指している。中国は、愛国主義や民族主義が高まる「理解しにくい国」「異質な国」というイメージがあり、欧米諸国のように民主的市民社会の質的充実をはかるための「市民教育」が盛んではないこともあって、比較研究の対象から外されることが多い。しかし、民主主義国家の教育においても政治との関係を完全に切り離すことは不可能であり、グローバル化によって人間の学びや価値形成が国境を越えて行われていること、世界的な不況や貧富の格差の拡大で民主主義の危機が叫ばれていることを考えれば、政治体制の差異に関わらず市民教育に関する共通課題を見出すことは可能であろう。

(国際社会科学/中国語)

 

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