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最終更新日:2017.02.02

教養学部報

第584号 外部公開

川瀬敏郎氏(花人)講演会
「日本の花─どうして私たちは花をいけてきたのか」

田中 純

3月14日、激しい風雨にもかかわらず学内外の聴衆が詰めかけ満員となった18号館ホールで、花人・川瀬敏郎氏による講演会「日本の花─どうして私たちは花をいけてきたのか」(超域文化科学専攻・表象文化論コース主催)が開催された。

講演に先立ち、50枚ほどのスライド上映により、川瀬氏の30代から50代にかけての花の実作が、「四季一生」のタイトルのもとに紹介された。壇上には竹花入をはじめとする三つの花器が置かれ、川瀬氏はまず銅器に一本の松の枝を立て、壺に白い椿を無造作に入れた。前者は「たてる」花であり、後者は「いれる」花である。前者は花を「とめた」もので、人間の意志による花であるのに対し、後者はいわば花がおのずと「とまった」ものである。川瀬氏によれば、この「たてる」と「いれる」の二つを両極的な原理とし、それらを折衷したところに、日本の「いけばな」は生まれた。

では、利休の佗茶の花に始まる「いける」という行為はそもそもどのような営みだったのか。それは「心をいける」ことであり、花とはそこで「心のあかし」、「心のありか」であった、と川瀬氏は言う。それゆえに、花をいけることは欲深いものでもありえて、川瀬氏自身が、トラックいっぱいの桜をいけるなどという欲望の徹底を経てはじめて、花は一本だけでよい、あるいは、一本すらもいらない、といった現在の境地にいたっている。「いける」ことはそのときただちに「いきる」ことなのである。

しかし、「たてる」と「いれる」という相異なる原理をしっかりと踏まえた個人がみずからの心をいけようとする、まったく自由な営みであったはずのいけばなが、流派のいけばなにおいては容易に一定の「型」へと固定化し、花は人間の好き勝手にできるたんなる「花材」と化してしまう。それを川瀬氏は、花は「文化」になってしまった、と表現する。「文化」になるとは「弱くなる」ことである。この過程で二つの根本原理は忘れ去られ、花をいけることはもはや、その都度わが身をぽんと「なげいれる」ことで「心をいける」営みではなく、花材のレイアウトによって「私」を型どおりに造形する行為─「文化」としてのいけばな─に変化してしまう。それゆえに川瀬氏は、既存の型に頼るのではなく個に徹し、「たてる」と「いれる」の両極をつねに基盤としながら、流派に属さず「ひとりでやる」ことの重要性を繰り返し説いた。

川瀬氏は壇上で、実際に松の枝を次々と切り、枯れすすきをそこに真横に差すなど、自在に「心をいける」さまを実演した。何らかの「かたち」がそこで目指されるのではなかった。われわれが眼にしたのは、枝を切り、向きを変える一連の動きそのものが心の動きであり、それがおのずと「たてる」と「いれる」の二つの原理の絶妙なバランスのもとに静止するさまだった。とりわけ「切る」身振りのためらいのなさが印象的だった。

古代の人びとにとって「人」は「草」そのものであり、「草」のなかにすでに「真=神」があったと語るとき、川瀬氏の手にするふきのとうが、「真=神」なる「草」にして「人」のイメージを宿すように見えたことを思い出す。講演の後半では、最近の著書や雑誌連載から選ばれた花の写真のスライドが、川瀬氏による解説とともに上映された。「いけよう」とする心の爆発を示すかのような冒頭のスライドの花との違いを通して、いけられた心そのものの変化がうかがわれる映像であった。

実際に花をいけながらなされた川瀬氏の講演は濃密で贅沢な内容だったが、同時に緊張感あふれるものでもあった。それは聞く者に覚悟を迫るような言葉がそこに散りばめられていたからである。「ひとりでやる」はそのひとつである。川瀬氏は「資質が大事」とも語った。資質とはそこで、あれこれの才能ではなく、「私」に拘泥せず、瞬時に身を「なげいれ」られるかどうかの決断力である。さらに、花をためらいなく「見事に切る」ことこそが必要との言葉もあった。

講演で川瀬氏は「たてる」の原理を国立大学に、「いれる」を私立大学にたとえたが、より広い心のかまえの問題として、「たてる」と「いれる」は学問についても言えることではないかと筆者は思う。先のたとえに対して筆者は、「駒場のわれわれはその両者を備えることを目指しています」と応じたのだが、さて、「心をいける」ようにして、対象を「見事に切る」研究ができているのかどうか。「私」を離れて身を「なげいれる」思索をなしえているか。そもそもそのような「資質」を備えているだろうか。大学における学問はいつの間にか、否定的な意味での「文化」に堕してはいないか─いずれも恐ろしい問いである。川瀬氏のいけた花を眼にし、剣客のようなこの花人のたたずまいに触れた記憶を反芻しながら、「ひとりでやる」個に徹する覚悟について思いをめぐらせている。

(超域文化科学/ドイツ語)

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