HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報585号(2016年7月 1日)

教養学部報

第585号 外部公開

矢内原忠雄の詩

川中子義勝

哲学者矢内原伊作は、父矢内原忠雄のすぐれた伝記を遺した(『矢内原忠雄伝』一九九七年)。未完に終わったが、父の幼年期から東大辞職直前までを丹念に描き、その生涯に独自の光をあてる。初めに父の人物像を概括しつつ、こう記している。「矢内原忠雄はすぐれた詩人だった。世間にも詩壇にも知られていないが、すぐれた詩の数々を書いている。」英文学者川西進(本学部名誉教授)は「詩人としての矢内原忠雄」において、主に青年期の詩文を扱い、そこに詩人の素養と直感的洞察力を指摘している。生涯に亘って矢内原は、時に臨んで詩を綴っているが、その詩全体を扱った論考はまだ現れていない。「植民政策」を講ずる学者として、また一キリスト者として、矢内原の言葉は、詩作よりも個々の時代状況と具体的に深く切り結ぶ方向を取った。しかし後年も、青年時代の文章に窺える詩想の閃きは、そのような場でそのつど語り出される言葉の中に響いている。

一九三三年三月二六日、矢内原忠雄は内村鑑三没後三周年記念講演会 において「悲哀の人」と題して語った。イザヤ書(五三の三)に依るこの言葉について彼は言う─悲哀の人とは、自身の事を悲しむ人ではなく、罪と偽りが世に満ち、誰も真理が分からなくなっているときに、真相を見抜いて真実を語る人。真理を述べて迫害されることにより、自らが代ってその罪を負う人であると。矢内原は、国民の罪を指摘して迫害された師内村鑑三の生涯をその系譜に数えるが、自らも「悲哀の人」の歩みを負うこととなった。

一九三七年七月、日中戦争の口火を切った「蘆溝橋事件」を受けて矢内原は、論文「国家の理想」を執筆。これは、中央公論九月号(八月刊)に掲載されるが、発売とともに全文削除となった。大学の内外に彼を非難する声が高まる中、十月一日、内村門下の先輩藤井武の七周年記念講演を彼はこう結んだ。「今日は虚偽の世に於て、我々のかくも愛したる日本の国の理想、或は理想を失つたる日本の葬りの席であります。…どうぞ皆さん、若し私の申したことが御解りになつたならば、日本の理想を生かす為めに、一先ず此の国を葬つて下さい」。この言葉は暴力や革命を勧めるものではなく、不義により国が滅亡の途を進む時に、悲哀の人として辛うじて残る良心の証となることを促すものである。

「植民政策」を講じつつ、矢内原は「御用学者」の立場を採らず、帝国主義が国家の欲の衝突する闘いに帰着することを闡明し、支配に服する者の立場を顧みるように説いた。欲望の衝突する際には、強者の勝利が自明の論理となる。国家おいてそれは、対外的には外国侵略として、対内的には女性・子供・寄留者など無用者への迫害として現れる。そして国が滅びる時には、この最も弱い人々が真っ先に犠牲になる。それ故「一先ず此の国を葬つて下さい」とは、まず先に自らが傷みを負わずして軽々に語ることはできない。自らの言葉のもたらすものを期していた矢内原は、時を知り十二月に辞表を提出した。

辞職後、矢内原は、少数の人々に聖書と古典を講じつつ、月刊の個人誌『嘉信』によって真実を訴え続けた。『嘉信』は、幾度も発禁、削除の処分を受けたがこれに屈せず、廃刊を指示されると『嘉信会報』と誌名を変えて刊行を続け敗戦の時を迎えた。次に引く「送別歌」(『嘉信』一九三八年九月号)もまた、削除処分を受けている。「羊を狼の中に/入るる思ひす。/…//心柔和に体弱き君は/戦闘に適はしからず、/肩に置かるる銃は/君の十字架である。//…//肉体死線を越え/霊魂暗黒に包まるる時、/復活の希望さやかに/君は第三の天にあらう。//我れ十字架を教え/君それを負ふ、/我が心痛む、/復会ふは何の日何の処ぞ。//十四万四千人の歌ふ/新しき歌を覚えよ、/我ら再会の日の/力強き合唱の為めに。」戦地に赴く教え子を送る矢内原の言葉には痛切な響きがある。入隊していく学生もまた国の罪を負う「悲哀の人」であった。

最後に「声」と題された一篇を引く。「或る日私は聖声(みこえ)を聞いた、/『往きて語れ、併し之が最後である、/この民に再び平和を語るな、/我彼らの心を頑なにし、/我が審判(さばき)を成し遂げるであらう』。/之を聴いて私はいたく恐れ、/五体震ひに震うて止まなかつた。/今日はしも我は世界に世は我に/背き立つ日ぞ五体ひた震ふ」。「十月一日の回想」という添え書きを持つ一篇である。この詩がどのような経験を伝えるものかについて、さらに言葉を加える必要はないだろう。この詩が今日の詩人たちに評価されるかどうかは分からないが、一つの出来事の余韻を十分に伝えている。しかし、出来事そのものの衝撃と、それがもたらす言語空間の大きさを担う点では「日本の理想を生かす為めに、一先ず此の国を葬つて下さい」という一言こそ、まさに詩の発現そのものであった。だが、そのような言葉を告げる者を人は詩人とは呼ばない。預言者と呼ぶのである。

(超域文化科学/文化人類)

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