HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報586号(2016年10月 4日)

教養学部報

第586号 外部公開

シェイクスピア没後  四百年の今

河合祥一郎

今年はシェイクスピア(1564〜1616)の没後400年に当たり、日本でもシェイクスピア関連の出版物や公演などが目白押しだ。

なぜシェイクスピアは、400年経っても人気が衰えないのだろうか。その理由は、第一にシェイクスピア作品に籠められた「多声性」(ポリフォニー)にあると言えよう。作品の中でさまざまな人物が声をあげ、それぞれの人物がしっかりと描かれているために、観客は自分の好みの登場人物の視点から作品を楽しむことができる。王侯貴族から庶民までさまざまな階層の人々を楽しませようとして戯曲を書いたシェイクスピアならではの特徴だ。

もう一つの理由として、シェイクスピアが文化的なアイコンとなっていることを挙げるべきだろう。原作を読んだり観たりしたことがない人でも、教養のある大人なら、To be, or not to be, that is the questionという台詞が誰の台詞か知らないのは恥ずかしい。

英米では新聞雑誌の見出しにシェイクスピアの名句を用いることは頻繁だし、何気ないところでシェイクスピアの言葉が用いられている。たとえば、三浦春馬がすばらしいドラッグ・クィーンを演じてみせたミュージカルKinky Bootsのプログラムの裏表紙にWEAR YOUR HEAERT ON YOUR HEELSと書いてあったが、これは『オセロー』のイアーゴーの台詞I will wear my heart on my sleeveのもじりだ(「袖に心を着ける」というこの表現は「心のうちを明かす」という意味の熟語になっている)。

こうして文化のなかにシェイクスピアが溢れてくると、芝居をあまり観ない人でも「シェイクスピアだったら観てみようか」と思うことになる。それゆえシェイクスピア公演はますます盛んになっていく。しかも、演出や出演者が変われば、同じ作品でもかなり違った上演になるから、さまざまな公演を観比べると、ますますシェイクスピアのおもしろさがわかってくる。

たとえば、今年の夏学期の演劇論Ⅱ(総合科目)では、フランコ・ゼフィレッリ監督の映画『ロミオとジュリエット』(ジュリエット役にオリヴィア・ハッセー)と、バズ・ラーマン監督の映画『ロミオ+ジュリエット』(ロミオ役にディカプリオ)を観比べながら、原作がどのように異なった映画作品となっているか確認しながら講義したが、受講した学生は「何か一つのシェイクスピア作品の映画や舞台を観ただけでは済まず、他の映画や舞台と比較すると原作のおもしろさが浮かび上がってくる」とわかってくれたのではないだろうか。

シェイクスピアはバレエにもオペラにも絵画にも文学にも影響を与えているから、教養人を目指すなら慣れ親しんでおくとよいだろう。舞台に限って言えば、今年の9月には私自身の新訳・演出でシェイクスピアの初期喜劇『まちがいの喜劇』を上演したし、これから観られる主だった上演としては、秋の新国立劇場での『ヘンリー四世』や、ブロードウェイの演出家マイケル・メイヤーによる『お気に召すまま』の新春公演など多数の公演がある。

ただし、日本でシェイクスピア作品に触れる際には、それがどのような文化的変容を経ているかを考える必要があるだろう。
挿絵を見てほしい。1874年1月に横浜で発行された『ザ・ジャパン・パンチ』に掲載されたものだ。左側に「シヱクシピル(=シェイクスピア)」とあり、絵の下にはローマ字で「アリマス、アリマセン、アレワ ナン デスカ」とある。なんとこれこそ、To be, or not to be, that is the questionの日本初の翻訳なのだ。

もちろんまじめに訳しているのではなく、当時の横浜在住の外国人が使っていたおかしな日本語(ピジン日本語)を揶揄して、雑誌の編者チャールズ・ワーグマンが、ハムレットの名台詞もピジン日本語ならさだめしこんなふうになってしまうだろうと風刺をきかせて訳したものだ。

「アリマス、アリマセン」は冗談としても、チョンマゲ姿のハムレットがもつ違和感は否めない。日本人がシェイクスピアを演じるかぎり、ひょっとするとこの違和感はついてまわるのかもしれない。かつて夏目漱石が「沙翁(シェイクスピア)を上演のために翻訳するのは不可能だ」と断じたのも同断であろう。

その意味でも、文化を超えて日本でシェイクスピアを受容することのむずかしさを、この絵は示しているように思えてならない。

(超域文化科学/英語)

 

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