HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報588号(2016年12月 6日)

教養学部報

第588号 外部公開

<送る言葉>─石井洋二郎先生を送る─ 良心と信念の人

森山 工

たとえあなたが去って行っても。
「送ることば」というこの記事の献辞のようでもありますが、じつは松任谷由実作詞作曲の歌のタイトルです。この歌に、「あなたならどうしたか、あなたならどういったか、迷ったときはどこかで問いかけるわ」という一節があります。

わたしには、迷ったときに、あの人ならどうしただろう、どういっただろうと内心で問いを投げかける相手が三人ばかりいます。そのなかで特権的な位置を占めてきたのが、石井洋二郎先生でありました。

石井先生といえば、芸術選奨・文部科学大臣賞をはじめ、数々の賞を受賞された偉大な学問人であります。その学風の特徴は、論理的かつリニアに展開される論旨であり、ときにそのリニアな展開を裏切るかのように華麗に、かつ適切に跳躍する問いの設定にあります。一編の論文にしろ、大部の著作にしろ、まるで一筆書きのように完結した作品世界を読者に提示する、その構想力の緻密さにあります。

その一方で石井先生は、総合文化研究科長・教養学部長を務め、東京大学理事・副学長をお務めになっておられる偉大な大学人でもあります。わたし自身は、同じ専攻(大学院)・コース(後期課程)・部会(前期課程)に所属する者として、石井先生の学術的な著作には早くから親しんできたのですが、仕事の上では、とくにこの六年ほど、大学人としての石井先生との接点が多かったように思います。さまざまな会議での問題提起や問題解決のご発言、あるいは会議の議長としての討論の捌き方には、学問人・石井洋二郎と同じような論理性とリニアな思考の航跡が感じられ、通常は無味乾燥な会議にあってさえ、スリリングな思いをすることが一再ならずありました。

学問人としてにせよ、大学人としてにせよ、そうした石井先生を支えていた基盤は、自分に対して厳しい自制的なまでの良心と、現在いる地点から将来の別の地点へといたる道筋に対する冷徹なまでの信念なのではないでしょうか。自制心に欠け、時に信念もぐらつきがちなわたしのような人間には、まことに範となる(「石井先生ならどうしただろう、どういっただろう」)先達であられました。
かといって、石井先生に「遊び」がないわけではありません。石井先生のカラオケ好きは自他ともに認めるところで、大学人としての多忙なご公務のかたわら、「ヒトカラ」を楽しむような余裕人でもあります。もっと過去にさかのぼれば、幼少期に「緊縛」に目覚めた原体験であるとか、パリ留学時代の「夜這い」であるとか、ここに詳しく書くことは憚られるようなお茶目な(?)エピソードの持ち主でもあります。こうしてみると、石井洋二郎という人格がじつにバランスのとれた安定感に裏打ちされた人格であることが分かります。

冒頭に言及した松任谷由実の曲の一節には、「そしてわたし、道を曲げなかった」という続きの節があります。石井先生ならどうしたか、どういったかと自問しつつ、道を曲げないわたしでありたい。さらに続けて松任谷は歌います。「だからこんなに愛していたの」。もちろん、ここで歌われているのはいわゆる恋愛の「愛」でしょう。でも、たとえあなたが去って行っても、少なくともわたしから見てあなたは、恋愛関係に限定されることのない広い意味での「愛」の対象であるのにちがいありません。

(地域文化研究/フランス語・イタリア語)

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