HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報588号(2016年12月 6日)

教養学部報

第588号 外部公開

リピッドワールド仮説 〜生命起源を読み解く新しいキーワード〜

豊田太郎

生命起源とは、多くの人を惹きつけてやまない未知の命題であり、この命題が解けた暁には、私たちの生命の観念は大きく変わると考えられています。このようなインパクトを追求する自然科学のフロンティアの対象は、いま、地球上の生物にとどまらず地球外生命体の探査にまで及んでいます。しかし、地球外生命体の可能性までを含めた生命起源を、私たちはどのように理解すればよいのでしょうか。地球以外に水のある環境が発見されても、地球外生命体が地球上の生物と同じ存在、同じ仕組みで“生きている”かどうかはわかりません─

この命題に挑む一つのアプローチが、あらゆる物質を使って生命体らしくふるまう“人工の自然系”を実験的に創り出す化学を基盤とする、構成論的手法です。私の所属する研究グループは、この手法による、リピッドワールド仮説を主軸にした細胞モデルの創成に全力を注いでいます。

リピッドとは脂質のことで、脂質分子は水になじむ部位となじみにくい部位を併せもっており(両親媒性分子と呼ばれます)、水中では水になじむ部位を水側に向けて集合して形作ることが知られています。水の中に漂う脂質の分子集合体が、外から物質を取り込んで内部で化学反応を繰り返し、自身の構成分子を生産できると、増殖しつつも、一つ一つが異なる情報(疑似的な遺伝物質)をもって競争し、環境から淘汰されるプロセスでは物質的な進化が引き起こされるでしょう。2001年、コンピューターシミュレーションでこの現象を提示したセグレ(Segré)とランセット(Lancet)は、「リピッドワールド仮説」として生命起源を論じました。いま世界では、このリピッドワールド仮説そのものや、リピッドワールド仮説とその他有力な仮説との接点を示す実験研究が、待ち望まれています。

その潮流の中で、私たちは最近、ある種類の両親媒性分子と脂溶性の分子を水中で混合し光学顕微鏡でじっと観察していると、粒径数十〜数百マイクロメートルの油状の球形粒子が、水中をおよそ時速三センチメートルで泳ぎ回ることに気付きました。このメカニズムを調べてゆくと、水中に溶けていた両親媒性分子を球形粒子が取り込んでゆく反応中に、粒子表面に吸着した両親媒性分子が次々と粒子表面を滑って取り込まれることがわかりました。その結果、粒子には吸い込み口と吐き出し口ができるように対流が形成され、粒子周りの水も一定方向に流され、その反動で粒子自身が進むと考えられます。私たちが調べた範囲では、現在地球上に存在する生物が、このようなメカニズムで運動するという報告例はありません。しかしこれは、エネルギー取り込みと運動へのエネルギー変換とが組み合わさった、最も単純な運動様式といえるのではないでしょうか。

こうなると、上記の構成論的手法の出番です。私たちが最も力をいれたのが、水中で泳ぐメカニズムを損なわずに増殖できる、人工の油状粒子の創成でした。水になじみにくい側の部位が粒子の構成分子そのものになるような両親媒性分子をあらたにデザインし、化学合成し、駆動する油状の球形粒子に添加して、顕微鏡で観察しました。すると、十数分ほどで粒子は減速してゆき、分裂し、分裂後の球形粒子も泳ぎ回ることがわかりました。これは、水中で駆動する油状の球形粒子が化学反応を通じて増殖するという現象を作り出すことができた、世界で初めての成果となりました。分裂のメカニズムの詳細はまだわかっていませんが、粒子の構成分子が増えてゆく中で、副生成物が粒子を駆動しにくくすると同時に、粒子内部に柔らかい領域と硬い領域ができて分裂しやすくなるのではないかと私たちは考えています。

さらに、この分裂メカニズムを顕微鏡を用いて研究していたところ、あらたに、分裂ではなく様々な形に変形しながら泳ぎ回る油状粒子に気付くことができました。この研究は、統合自然科学科の全学自由研究ゼミナール「最先端のサイエンスを駒場で研究体験するプログラム」(内田さやか先生ご担当)で前期課程の学生さんと行った実験が発端でした。アメーバのように水中を泳ぎ回る細胞サイズの油状の粒子は、これまでに研究報告例がありません。粒子表面での両親媒性分子の滑りが均一でなくなることが変形の原因ではないかと推定されます。このような成果は、細胞運動の起源を考えるきっかけになると期待されています。また、こうした粒子は狭い空間でも入ってゆける能力がありますので、運搬体としての応用も考えられます。

このような構成論的手法は、2016年12月に本学に新設される生物普遍性連携研究機構というキャンパス横断型の研究教育組織でも大きな柱の一つとなっています。この研究教育組織の取り組みは、学部一、二年生の時から先端の研究を経験し展開したいという意欲的な学部生に大きく門戸をひらくものと、私たちも大変期待しています。

(相関基礎科学/化学)

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