HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報590号(2017年2月 1日)

教養学部報

第590号 外部公開

<送る言葉> ─上田博人先生を送る─

斎藤文子

片方の肩にリュックをかけ、数歩先の地面を見ながら、前屈み気味に早足で歩いておられる姿を一八号館付近で見かけたら、それが上田先生です。お声をかけると、顔を上げ、にっこりしてくださいます。

上田先生のご専門は言語学で、二〇以上の国々と諸地域で話されているスペイン語のバリエーション研究では、世界の第一人者です。先生のリーダーシップのもと、世界各地から研究者が集まって一大プロジェクト集団(VARILEX)を作り、成果を発表しています。そのための仕事量たるや膨大なものと思われますが、しかし上田先生は目の前にどんな山がそびえていようとも、ひるむことなく一歩一歩、黙々と乗り越えてゆかれます。誠実で謙虚なお人柄、研究への一徹さ、その姿は崇高でさえあります。
駒場のスペイン語教育は上田先生のもとで大きく育ってきました。昨年亡くなられた増田義郎先生がスペイン語を必修外国語のひとつになさったのが一九八六年、増田先生が八八年に退職なさると、入れ替わりに上田先生が東京外国語大学から駒場に赴任してこられました。生まれたばかりのスペイン語部会のたった一人の専任教員として、駒場におけるスペイン語教育の基礎を築き上げました。その後徐々に教員の数が増え、学生数も増加し、現在では三千人余りの新入生のうち九百人近くが初修外国語としてスペイン語を選択しています。

この三〇年近くのあいだ、スペイン語部会編集の教科書、インターネットで誰でもアクセスできる文法解説、視聴覚教材などの作成を実質的に担ってきたのは上田先生にほかなりません。今年度から先生が加わらないチームで新たに作成した教科書を使い始め、これまで頼り切っていた舵取りがいない不安な船旅に、私たちは乗り出しました。しかし先生が定めた進路は継承していくつもりです。

ところで、スペインにはトルティーヤという、ジャガイモとニンニクを入れただけのオムレツがあります。作り方も材料もいたってシンプルですが、それだけに、上手に作るのが難しい料理です。だいぶ前のこと、某先生のお宅にスペイン語部会メンバーが家族連れで集まって、スーパーへ買い出しに行き、皆で料理を作って食事したことがあります。そのとき上田先生が「トルティーヤなら僕できます」とおっしゃって、フライパンの下を何度ものぞき込みながら火加減を調整しておられたことが忘れられません。そのトルティーヤの美味しかったこと、今やスペイン語部会の伝説です。

退職後は、スペインとスウェーデンの大学でしばらく研究を続けるご予定とうかがっています。今までと同様、数歩先を見つめながら、黙々とお仕事をなさっていかれるのでしょう。海外で自炊生活になるんです、と心細そうにしておられましたが、あれほどのトルティーヤをお作りなれるのだから大丈夫です。レパートリーを増やして、またいつか私たちに振る舞ってください。研究と料理、先生の今後の成果を心待ちにしています。

(地域文化研究/スペイン語)

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