HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報592号(2017年5月 2日)

教養学部報

第592号 外部公開

<時に沿って>移動することと考えること

岡田泰平

もう十年以上前のことだが、小さなワークショップの手伝いをすることになった。そのワークショップにフィリピン研究では良く知られた民衆思想史研究者が参加していた。彼はマニラの私立大学を卒業した後、ニューヨーク州の大学で博士号を得て、その後マニラやオーストラリアのキャンベラで教え、私と出会ったときは、シンガポール大学の教員だった。
昼食の時、隣に座った彼に、異なる場所に住むことは彼の思考を変えてきたのか、それともなんの影響もなかったのかと聞いてみた。詳細はもはや覚えていないが、異なる場所は異なる思考を促してきたというようなことを言ったと思う。

私は高校一年の時に生まれ育った東京の山の手を離れ、十代後半をマニラで過ごし、二十代前半をアリゾナ州の小さな町で過ごした。誰もがある時にある場所におり、その時に戻ることも、その時に違う場所にいることもできない。民衆思想史研究者が言うように、場所が思考に影響を及ぼすのであれば、自分が考えてきたことは、マニラやアリゾナでの様々な人々との出会いゆえに考えることができたとも言えるかも知れない。

しかし異なる場所は思考にどのような影響を及ぼすのだろうか。自らを異郷に置くことによって、理解できない言語、驚くべき慣習や自然環境、当たり前が通用しない日常から様々な「ずれ」を感じる。その「ずれ」を理解しようと新しい言語を身につけ、他者の歴史や文化を学ぼうとする。自己がそれまでの経験の束からできているのだとすると、それまでとはなるべく異なる体験をした方が、世界をより良く理解できる。そのような体験は本質的に楽しいことだし、世界をもう少し信頼できるようになる。それに自らが信じることに向けて、以前よりは少しだけ多い勇気をもって行動できるようになる。

しかしそのような旅はいずれ終わりを迎えなければならない。人間の寿命は限られているし、若返ることもできない。また、それぞれの場所にはいくら時間をかけても完全には理解できない豊饒さがある。あることを理解しようと思うと、より多くの時間をそのことに割くようになる。さらには、愛する人々の近くに常にいたいという気分も強くなる。そうこうしているうちに、時間は過ぎ、年を取ってしまう。

それでも、と時々思う。もう一度生きなおすチャンスがあるのであれば、今度はどこに行き、どのような人々と出会うのだろうか、と。私にとって、教えるということは、このもう一度生きなおすということに似ている。教えることとは学ぶことであり、教えた人の経験の一部を共有できることだからだ。それに数年も誰かを知り続けることができれば、その人が過ごした数年から私も学ぶことができる。

だから若い人には様々な場所に行き、「ずれ」から学んできてほしい。そしてまた駒場では、そのような人々に出会えるのだと思う。そのことをとても楽しみにしている。

(地域文化研究/歴史)

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