HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報596号(2017年12月 1日)

教養学部報

第596号 外部公開

駒場をあとに「駒場の自然と学生に囲まれた二十三年間」

尾中 篤

私は一九九五年四月駒場へ着任した。この年の一月に阪神・淡路大震災、三月に地下鉄サリン事件が起こった直後であり、またキャンパス内では廃寮問題で社会も学内も緊張感が漂っていた時期であった。私の最初の居室兼実験室は、十六号館五階の北側を向いた部屋。目の前に野球場、その先にFM東海時代の赤い電波塔が聳え立つ東海大学校舎、更に遙か遠くに新宿副都心の高層ビル群を見渡せ、特に夜になるとその明かりが当時のMac PCのスクリーンセーバーの夜景模様にそっくりで、部屋の電気を消して夜景を楽しんだ思い出もある。毎年、三月下旬からは目の前の野球場の周囲は、枝垂れ桜、ソメイヨシノ、八重桜が順に開花するので、約一ヶ月の間桜を楽しめた。また銀杏並木の新緑と黄葉も毎年満喫させてもらった。都心にこれほどのゆったりとした研究空間はなかなかないであろう。

私は大学院生時代に、有機化合物がアルミナと呼ばれる無機材料に触れると化学変化が速やかに進むという論文を読み、多孔質の無機固体物質が示す触媒作用に興味を持つようになった。名古屋大学への就職を機に、粘土鉱物やゼオライトと呼ばれる天然珪酸塩鉱物の微細空洞へ有機化合物を取り込んで、その空洞が示す作用によりその化学反応を加速する研究を始め、駒場へ移ってからも続けた。通常物質の合成実験は、ガラス製フラスコに試薬を加えて行う。粘土鉱物もフラスコと同じ珪酸塩でできているが、その空洞の大きさは約一億分の一程度なので、空洞内で繰り広げられる化学反応はミクロなフラスコを使った合成実験とも言える。しかも空洞の形状や大きさを選択し、空洞の表面に特定の金属イオンを意図的に配置すると、空洞表面に触れた有機化合物はそれらの触媒作用によって、化学変化が誘起される。どの鉱物を選び、どの金属イオンをどのような形で配置するかが、研究者の腕の見せ所となる。

還元的な雰囲気での無声放電により、数種類のアミノ酸や生命体に必要な有機物の合成に成功したユーレー、ミラーの有名な実験の後、原始大気はむしろ非還元的大気であり、この実験は見直されることになる。一九六〇年代から八〇年代にかけて、化学進化の過程で天然鉱物が無機物から生体に必要な有機物をゆっくりとつくりだす触媒として働いていたのではと考えられるようになった。一方私の研究は、現代の化学合成で求められている速やかに効率良く、しかも安全に有機化合物を合成できるよう、鉱物材料をより高機能に作りかえて活用しようとするものである。駒場に移ってから五十名弱の大学院生、卒業研究生が私の研究テーマに参加してくれたお陰で、この研究テーマを大きく展開できた。彼らの貢献に感謝する。

他の研究室では教員と学生の飲み会がときどき行われると聞くが、私はそのような機会を積極的に持とうとはしなかった。その代わりに、年一回研究室合宿と称して、九月頃に蓼科にある宿泊所に皆で行き、学会での口頭発表の練習や、最新研究文献を紹介し合うセミナーを行う傍ら、天候に応じて蓼科周辺の山や高原を歩き、また温泉に浸かることを恒例の行事としてきた。私にとって蓼科は子供の頃からときどき訪ねた思い出の多い地であるが、研究室の学生達にはあまり馴染みのない土地であったようなので、案内し甲斐があった。宿泊所には本格的な調理器具が備わっており、皆で近くの農協スーパーへ食材を買い出しに行き、学生たちが調理してくれた料理をゆっくり食べるのがコンパを兼ねた私の楽しみとなった。

また学生団体の教養学部化学部の顧問役を二十二年間つとめたため、部員の前期課程学生とは接触する機会が多かった。この役目は、彼らが土曜日に学生実験室を使って部活動することを化学部会が認める際の責任者になるもので、前期基礎化学実験担当の教員が一年交代で引き受けていた。着任後二年目にこの役が回ってきたので、当時の化学部長に薬品等の入手先を尋ねたところ、本郷の薬問屋へ出向き、電車で持ち帰るとのこと。サリン事件があった直後であり、電車内で持込禁止物の薬瓶を割ったりしたら大事になるからと中止させ、私の研究室の出入り業者に直接持ってきてもらったところ、化学部員からは好評で二年目以降も顧問を続けて欲しいとの希望もあり、結局今日まで続けてきた。化学部の学生は土曜日や長期休暇の期間中に大学へ実験をしに来る真面目な理科生達であったので、信頼できる授業評価を直接聞くこともできた。彼らには、「実験は単独では行わず、安全を常に心がけよ」「毒物や爆発物の合成は決して試みないよう、互いに実験内容を確認せよ」と言い続けただけであるが、幸い二十二年間大きな事故が一切無かったことは大変良かった。
駒場での二十三年間を振り返り、特にお世話になった化学部会の教員や、事務の方々に心よりお礼を申し上げる。

(相関基礎科学/化学)
 

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