HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報600号(2018年5月 8日)

教養学部報

第600号 外部公開

教養学部報第600号 特別企画 「模索し続ける教養教育の未来像」 学部長経験者インタビュー

研究課長室

古田元夫(学部長在任期間 2001年~2003年)
浅島 誠(学部長在任期間 2003年~2005年)
石田 淳(学部長在任期間 2017年~現在)

東京大学教養学部は、一九四九年五月三十一日、新制東京大学の発足と同時に設立されました。二〇一八年には、創設から七十年目を迎えることとなります。総合文化研究科長室・教養学部学部長室では、これを記念して元研究科長・学部長の先生方と、現研究科長・学部長の石田淳先生との対談を収録いたしました。対談は二月二十一日(古田元夫先生)、二十三日(浅島誠先生)に、総合文化研究科研究科長室にて、和やかな雰囲気のもと行われました。駒場寮廃寮、国立大学法人への移行という、駒場キャンパスにとってきわめて重要な時期に研究科長・学部長を務められ、いまの駒場の礎を築かれたお二人の話は、激動の時代を彩るさまざまなエピソードから、現代における教養教育の重要性、さらに今後の東京大学のあり方までと多岐にわたり、示唆に富む内容となっております。教職員はもちろん、学生の皆さんも、ぜひご一読ください。

激動の時代を振り返る

石田:新制の東京大学が発足し、教養学部(英語名称は、College of General Education)が創設されたのは一九四九年五月のことで、第一回の入学式は同年七月に安田講堂で挙行されました。その時の入学者数は総勢一、八〇四名(そのうち女子は九名)。駒場キャンパスでは教養学部と併存していた第一高等学校も、翌年に廃校になります。一期生の学年進行と合わせて一九五一年には教養学部後期課程として教養学科(英語名称は、Department of Liberal Arts)が発足。その時点では、アメリカ・イギリス・フランス・ドイツの各文化と社会、国際関係論、科学史及び科学哲学の六分科が開設されました。『教養学部報』はこの年の四月に創刊されています。自然科学系の基礎科学科が発足したのは一九六二年のことでした。

一九八三年に大学院総合文化研究科(英語名称は、Graduate School of Arts and Sciences)が発足し、駒場キャンパスに前期・後期・大学院の三層構造が出現しました。この名称と平仄を合わせるように、学部の英語名称もCollege of Arts and Sciencesとなりました。もうひとつ因みに、研究科と学部のロゴは、銀杏の葉を三枚重ねたもので、これは前期・後期・大学院の三層に亘る教育の融合と、世界と未来に向けた学問と人間の無限の交流と創造とをイメージしています。

その後、一九九一年の「大学設置基準の大綱化」(旧設置基準の下では、学部教育は一般教育と専門教育から成り、そのうち一般教育は人文科学、社会科学、自然科学、外国語、保健体育の五科から成るとされていた)、一九九三年から一九九六年にかけての「大学院重点化」、そして二〇〇四年の「国立大学法人化」などが、三層構造を持つ駒場を大きく揺さぶりました。

教養の名にふさわしい教育・研究とは何か、どのようなキャンパス環境を整備するべきかなど、研究科・学部の運営に携わった研究科長・学部長を悩ませた問題は何であったのでしょうか。

古田:私の学部長の任期は二〇〇一年から二〇〇三年までで、在任中の最大の出来事はやはり駒場寮の問題の最終的な決着をつけるという話でした。駒場寮は最盛時には七百名以上の寮生を有する日本でも有数の学内寮で、一高からの伝統を継承していた寮でもありましたけれども、一九八〇年代の末には寮生が数十人という規模になっていて、すでに学生に見放されていた感がありました。敷地は七百人以上の寮生がいた時代の敷地を持っておりましたので、さまざまな意味で、教養学部のキャンパスの再開発には障害になっているとして、学部は一九九五年に廃寮を告示しました。寮生が現にいる寮を廃寮にする訳ですから、できれば学生を説得して自主的に退去してほしかったところですけれども、最後はどうしてもやはり出て行きたくないという学生はおりまして、やむを得ず学部としては裁判所の力を借りて、寮の明け渡しを東京高等裁判所から命令(二〇〇一年五月)してもらって、その裁判所の決定の強制執行(同年八月二十二日)という形で、廃寮となった寮に不法に住んでいた学生たちを退去させ、そして誰もいなくなった寮を壊すという仕事が、私の任期中にありました。教養学部が五十周年(一九九九年)を迎えた直後でしたが、教養学部の二十世紀に幕を引いて、新しい世紀を迎える準備をする仕事がこの駒場寮問題だったと考えております。

私が学部長時代の出来事をどう評価するのかについては、いろんなご意見があり得ることかと思うのですけれども、最後の段階でさまざまな軋轢があり、円満に問題が解決したとは申し上げられない決着のつけ方だったとは思いますが、激しい衝突などの不幸な出来事を招くことなく解決できたのは大変良かったと思います。

実はすぐその後に、国立大学の法人化(二〇〇三年二月に国立大学法人法案公表)を控えていたわけですが、恐らくは法人化した後ですと、こういうことはできなかったんじゃないかと思います。というのは、裁判費用とか、警備などに相当の予算をつぎ込めたのは、国立大学として、そういうことに関しては国からの予算的な手当てがしてもらえるという前提条件があったからです。その意味でもこうした形での廃寮は二十世紀の出来事だったのかなというふうに思っております。

その駒場寮の問題の解決ということを踏まえて、二十一世紀の教養学部のビジョンをつくり、法人化が必至の趨勢の中で、それに臨む、準備をするということが私の任期のもう一つの大きな課題だったと思います。

大学院重点化を踏まえて学部教育をどうするのか、その中で、教養学部はどういう役割を発揮しなければいけないのか、さらに法人化(二〇〇四年)を控えて、それまでの部局連合の東京大学から、一つの法人としてまとまった東京大学に移行する過渡期に、東大全体における学部改革のリーダーシップをできる限り教養学部として保てるようにしなければいけないということで、例えば、進学振り分けにおける全科類枠構想(二〇〇六年に導入)ができたのはこの時代の議論の産物でした。

それから、日本学術振興会の「21世紀COE(Center of Excellence:卓越した研究拠点)プログラム」が始まって、大型の研究プロジェクトを大学の中でまとめて、それに対して国の予算が付く仕組みが本格的に動き出した時期でありまして、これも教養学部みたいなところで、どういう領域の研究を推進する必要があるのかをめぐり、かなり深刻な議論もした経験がございます。

駒場寮問題が解決をしたことによって、駒場キャンパス内の施設の建設ラッシュも始まりました。最初はファカルティハウス(二〇〇四年)の整備から話が始まり、そして、文系研究棟(十八号館)(二〇〇四年)、コミュニケーション・プラザ(二〇〇六年)などが続きました。もちろん、私の任期中に全部できたわけではなくて、話が軌道に乗ったというようなレベルの話です。それから学内的には保育所をきちんとした施設、男女共同参画支援施設としての位置付けを持った保育所にするというようなことがありました(完成は二〇〇三年)。また、大学評価・学位授与機構(二〇〇〇年設置)による教養教育の評価が始まった時期にも当たっておりまして、「学生による授業評価アンケート」の導入(二〇〇一年)をめぐり、かなり教授会でも議論がされたことを記憶しております。

ということで、いろいろなことに対応せざるを得なかったということですが、二十一世紀の東大教養学部を目指す上で、どういうことを解決しなければいけないのかということが、私の任期中にかなり浮き彫りになった面があったと思っております。石田先生が『駒場2017』(二〇一八年七月にウェブで公開予定)に寄稿された「総合文化研究科・教養学部の現状」という文章を拝見しつつ、あらためて感じたことなのですが、この文書の中で、将来に向けた研究の推進と現在在籍する学生を対象とした教育の充実という二つの課題の両立を目指す取り組みの中で、限りある資源の配分に関連して、「部局の予算及びポスト要求の説得力を一ランク高めるために、部局内の研究教育ユニットが個別に予算及びポスト要求を行ってきた従来の分権的な慣行を見直す」と書いておられます。まさにこの三層構造が立ち上がって、それをどう回していくのかということが、ちょうど私が学部長だったころから、総合文化研究科の大学院重点化の完成ということを踏まえて本格的な課題になりました。この課題に関しては、十分に長持ちする方向性を出し切れなかった感がありまして、それで十五年たった現時点でも、石田先生がこういうふうにおっしゃらなければいけない状況が存在しているということなんだなと思いました。

人事の流動性を極めて生み出しにくい三層構造を維持しながら、国際化だとか、さまざまな新しい要請にこたえるのはむずかしいという危機感は当時から強く持っていて、それをどうすればいいのかというような議論を専攻長・系長とした記憶があります。私の時期にそれについてのある種の新しい方向性をコンセンサスとして得るということはできませんでした。

教養教育再評価の時代

古田:別の話題ですが、教養学部卒の私の学士号は教養学士、Bachelor of Liberal Artsで、これについてはベトナムでも、これは何だとよく聞かれます。ベトナムの大学は旧ソ連の高等教育をモデルに設計されていて、専門分野ごとに単科大学があるというのが大学のつくりの基本でした。計画経済システムですと、それは合理的な高等教育の仕組みだったのかもしれないのですが、これだけ二十一世紀に全世界的に社会の流動性が高まり、特にベトナムのようなところは社会が大きく変化をしている状況の下で、そういう変化に対応できる幅広い視野と柔軟な対応力を持った人材は、専門性を過度に重視する教育システムからは生まれにくいと考えまして、リベラルアーツ型の教養教育を何とかベトナムの大学教育の仕組みの中に定着させる役割を日越大学が果たせないだろうかと考えております。

実はベトナムも一九九〇年代に狭い専門性を重視した単科大学ではまずいということで、本格的な総合大学として、ハノイとホーチミンに国家大学をつくりました。この国家大学は、それまでハノイやホーチミンにあった幾つかの有力な大学を統合した大学でした。この国家大学に教養大学を置いて、その教養大学が一、二年生の教養教育全ての面倒を見るという、東大教養学部に非常によく似たシステムが誕生しました。私は、当時、教養学部の助教授だったんですが、当時の学部長だった市村宗武先生(在任期間は一九九五年〜一九九七年)と大森彌先生(学部長在任期間は一九九七年~一九九九年)にベトナム国家大学ハノイ校の教養大学を支援するためにハノイに行っていただいて、東大教養の紹介をしていただいたことがあるんです。ただ、ベトナムでのその当時の試みはやや無謀な試みで、三十人の専任教員で、数千人の教養教育に責任を持たなければいけなかったということと、それから、東大のように進学振り分けの仕組みではなくて、実質上二年が終わった時にもう一回、専門の大学への入学試験があるような仕組みをつくりました。問題が噴出してしまって、学生にも不評でつぶれてしまったという経緯があって、ちょうどそれは日本では設置基準の大綱化で国立大学の教養部が解体されていた時期と重なって、日本も教養教育が駄目になったから、ベトナムも教養教育で頑張る必要はないとする議論がされた経緯がございました。

ただ、世界的には二十一世紀に入って、教養教育を再評価する動きが広がっていると思います。東アジア四大学フォーラムBESETOHA(一九九九年~)も北京大学、ソウル大学校、東京大学、ベトナム国家大学ハノイ校の四大学で共通する教養教育をつくる試みでした。日本では二〇〇四年に早稲田が国際教養学部をつくり、それから、秋田に国際教養大学ができるなど、教養と名を冠した大学ないし学部が再生する動きが出てきました。日本の国立大学の教養教育のモデルという域を越えて、東大教養学部、それから東大の教養教育を支える仕組みでもある大学院総合文化研究科の在り方について、国際的な関心は高くなっていると思います。実は先ほどお話しした、一九九〇年代の前半に教養大学がベトナムにつくられました時の「教養」を意味するベトナム語は、日本語でいう「大綱化」の「大綱」と同じ言葉だったのですが、最近では「解き放つ」という意味のベトナム語を用いるようになりました。このように、ベトナムでも教養教育の意義を再検討する動きがあり、そういうこと考える人からは、一九九〇年代初頭の大綱化以降三十年ぐらいの東大教養学部の歩みをぜひ教えてほしいと言われて、私の気付いてなかったような角度からも駒場のことが注目されてるんだなというようなことを日々実感している面がございます。

石田:リベラルアーツ教育の駒場における試みを輸出する、あるいはアジアで共有するということに関しては、刈間文俊先生(元教養学部教授。二〇一七年三月に定年退職)を中心とした、ゼンショー・ホールディングスの寄附金で運営されている東京大学リベラルアーツプログラム(LAP)南京もその典型例でしょうか。

古田:私も南京大学のプロジェクトは立ち上げのところで刈間先生にお供して南京大学まで行って、いろんなお話を差し上げたことがございますので思い出深いです。東アジア四大学フォーラムでも、四大学に共通する教養教育のテキストを作ろうということで、いずれも漢字文化圏の大学ですから、各国の主な漢文学の作品を一冊にまとめて四カ国語で解説を付けた教材を作ろうという提案が出まして、ベトナム、韓国、日本はそれなりに乗り気になってかなりの準備をして、作品を二十編ぐらいずつ選ぶところまでいったのですが、本家本元の北京大学が話に乗らず、残念ながら流れてしまいました。

東アジア四大学フォーラムは結局十六年やりましたので、それなりの議論の蓄積はできて、それぞれの大学が教養教育という課題にどう向かい合っているのかということに関しては、相互理解が深まった面があるかと思います。ただ教養教育の輸出は相当にエネルギーがいる話で、南京のLAPもまず刈間先生がおられて、それから駒場の幾つかの研究・教育ユニットがかなり強くバックアップをしてくださったということで、あれだけのことができたということはあると思います。

もっと広げるといっても、そう簡単なことでないと思いますが、状況も変わってきている面はあります。遠隔授業の仕組みもかなり整備されまして、今、日越大学でも日本の先生の授業の三分の一ぐらいはテレビ会議システムを使った遠隔授業でやっていただいていて、一学期のうち二~三回、日本から先生に来ていただいて学生の理解度をフェイスツーフェイスでチェックしていただくというようなこともしております。

駒場の通称PEAK(Programs in English at Komaba、正式には国際教養コースで、因みに英語名称においてこの「教養」にはGeneral Educationの訳語があてられている)の授業も、全部、国際的に発信していただけるならば、日越大学の授業にもPEAKの授業を活用できると感じております。

石田:最新の技術を使って教養教育の対外的な発信をして、駒場の教養教育の共有と継承とができれば何よりと思います。三層構造について、問題を積み残した部分があるかもしれないと先ほどおっしゃってもおられましたが、この三層構造のどこの部分が重要かということについては、駒場の中で考え方が必ずしも同じではないようです。どこにどういう重点を置くのかということについての受け止め方が研究科内の所属によって微妙に異なり、その辺りも難しいところかと感じているところです。

古田:私が学部長だったころは、まだ前期課程がどの部会に属しているかで、先生方の授業負担とか、いろんなことにたいへんな違いがあって、なかなかそれをならして考えるというわけにいきませんでした。やはり前期課程の所属によって、その先生の中で前期課程教育が持っている比重は全然違います。例えば、私はベトナム研究者ですので、ベトナム語を学生に教えようと思えば教えられなくはないので、学部長になるまで第三外国語としてベトナム語の授業を開講していました。外国語の前期部会に所属していない教員が外国語教育に携わるということが、外国語の先生から見てどう映るのかはそれほど単純ではありません。

石田:法人化以降の課題としては、研究にしても財源の多様化ということで、要するに運営費交付金に頼らずに、科研費や各種助成金はもちろんのこと、共同研究、受託研究、寄付金等々、いろいろと財源を確保することの重要性が事あるたびに強調されるのですけれども、この点についてはいかがでしょうか。

古田:そうですね。研究にはお金はそれほど必要ではなくて、むしろ、時間と自由がお金よりは欲しいみたいなことをやっておりましたので、大型研究費を獲得しなければいけないことの切実感は弱かったかもしれません。21世紀COEのように、学内の競争を勝ち抜かないと国から予算をもらうところにたどりつけない仕組みになりましたので、駒場が何を売りにするのかは難しい問題でした。ただ、文系の学部長だったもので、どうしても「文系の人間が学部長をやってたから理系のCOEは落とされた」と思われると学部全体のまとまりに禍根を残すので、自分の意識の中では、自分が申請の内容をどれほど分かっていたのかはかなり疑問なんですけども、理系の話を通してもらうのにエネルギーはより多く割いたかなというようには思います。

石田:それは私も、お気持ちはよく分かります。予算要求の場面で、どういう分野の研究であれば、駒場が全学のハブになり得るのか、どういう領域のプロジェクトを全学に向けて打ち出すべきかという問題は、今の教養学部にとっても切実なテーマです。

せっかくですから、研究科長補佐の武田将明先生からいかがでしょうか。

武田:今日のお話を伺って、まさに古田先生は駒場の二十世紀に幕を引いて、二十一世紀の扉を開くような、大事な転換期に学部長をされていたことが分かりました。おっしゃるとおり、二十一世紀に入って駒場のみならず日本の大学もいろいろと変わっているところがあり、変わらざるを得ないところもあるのかもしれないのですが、古田先生の視点から、駒場の教養教育のここだけはぜひ今後も変わらないでほしいというところが、何かあれば教えていただけないでしょうか。

古田:今、ある意味で、風は教養教育にとっては追い風で、先ほども申しましたとおり、社会と技術の大きな変化に対応できる人間を養成するには、教養教育が従来掲げてきた理念が非常に積極的な意味を持っているだろうと思います。今、いろんなところで、教養教育の再評価の話が出ています。実はちょうど、日越大学はリベラルアーツとサスティナビリティ・サイエンスの二つを基本理念にしているのですが、そのサスティナビリティも、以前はサスティナビリティを重視する人と、デベロップメントを重視する人とは違う発想の持ち主だみたいな扱いをしていたのですが、今やむしろサスティナビリティとデベロップメントがどうすれば両立するのかが課題になっています。似たような問題は恐らくリベラルアーツにもあるのかなというふうに考えています。駒場でも文理融合型の卓越大学院プログラムの話が出ているようですが、東大全体で見ると、この非常に斬新なプログラムを提案できるのは駒場のほかにないと思います。

私も、例えばサスティナビリティ・サイエンスは二十一世紀に必要不可欠なリベラルアーツだというような言い方をしています。非常に優秀な先生方がいろんな分野におられる駒場が世界的に注目されるような試みを作り上げていただくことを期待しております。

石田:本当に今日は貴重なお話を伺いました。最後にまとめるわけではございませんが、ソビエト型の専門性重視の単科大学は変化を想定しない計画経済においては合理的であったかもしれないけれども、今の激しい変化に適応、対応できる力を育てるためには、狭い専門に囚われない総合大学的な教養教育が必要であるというお話を伺い勇気づけられました。自分の専門分野だけではなくて、全体を俯瞰して、全体の中でどのような変化が起きているのかをしっかり認識して、それに対応していく力を付けなければなりません。教養教育それ自体も柔軟に変化に対応していかなければならないということをあらためて感じさせていただきました。どうもありがとうございました。

国立大学法人化という転機を迎えて

石田:古田先生からは、その在任期間は、法人化以前の二十世紀の駒場のいろいろな課題に対処しながら二十一世紀の駒場を準備していく、そういう時期であったと伺いました。その古田先生の後を受け、国立大学法人への移行(二〇〇四年)期に教養学部長をなさった浅島先生から、その在任期間(二〇〇三年〜二〇〇五年)中の課題などについてお話しいただければと思います。

浅島:古田先生が駒場寮の廃寮について述べられましたけれども、駒場にとってみると、十年間続いた駒場寮の廃寮問題は、やはり大きな課題でした。学生の活動のための場所を駒場につくるということで、CCCL(Center for Creative Campus Life)の構想が練られました。
教養学部をこれからどうしていくかということを考えるうえで一番大きな問題は、教養とは何かという問題でした。一九九一年の「大学設置基準の大綱化」によって、全国の大学は教養部を廃止する方向に向かったわけです。このときに、教養学部が初めて学部声明を出しました。教養学部の存立は必要であると表明した。当時の先生方の見識は非常に高かったと思っています。

そして、それから十三年が経って二〇〇四年には大学の「法人化」となるわけです。大学の中では、私の見るところ、科所長会議とか総長補佐会議とか、一定の議論はされたけれども、教授会でこの問題に真正面から取り組んだのは教養学部だったのではないでしょうか。少なくとも教養学部教授会(二〇〇三年四月二十四日、および五月二十二日)では、教育・研究にかかわる「中期目標」の決定権が大学ではなく文部科学大臣にあること、大学の本来の業務たる教育・研究の質の保持・向上について、これを研究科教授会が担うという従来の制度の尊重に言及がないこと、関連してそれを優先する形で経営を行うべきことが明示されていないことなど、国立大学法人法案がかかえる問題点を多面的に討議したうえで、学内外にその懸念を表明しました(声明の詳細は、『駒場2003』を参照されたい)。これによって、教養学部の教員の中では、法人化とはいったい何かとか、それによって何が起こるであろうかということは、かなり共有されたと思います。大学の自治そのものが問われていたのでしょう。当時の言葉で言えば、法人化によって文科省からの縛りがなくなり、かなり自由になるはずだ、裁量権が広がるはずだとの説明を受けたわけです。しかしながら、実際にはなかなかそうはいきませんでした。今思うと、いろいろな改革が学内外でできていれば財政的に先細りするだけにはならなかったのでしょうが、当時の流れから見るとなかなか難しいものであったというのは十分理解しております。

そういうことがありまして、駒場では、「大学設置基準の大綱化」とか、それから一九九九年に「大学院の重点化」とか、大波にさらされました。重点化は、他学部はともかく教養学部にとって特に大変でした。何とか先生方に不安を抱かせることなく教養学部から総合文化研究科のほうに移行できました。
それから、ゆとり教育による学力の変化がありました。特に私の専門の生命科学では、生物の基礎知識を持たない学生が入学してきたときに、いったい教養教育は成り立つのかが懸念された訳です。そこで、全学の生命科学ネットワークを作りました。ここに全学部から生命科学者が結集して、まず、生物を高校時代に全く学んできていない理科一類の学生を対象に、『生命科学』(羊土社、二〇〇六年)を出版しました。それから、理二・三の学生を対象とした『理系総合のための生命科学』(同、二〇〇七年)、さらに『文系のための生命科学』(同、二〇〇八年)を作成しました。全学の先生方の協力と学内外の有識者も集まり、熱心に討議して教科書を作る過程では、教養学部がリーダーシップを発揮しました。これは、今でも続いていますよね。

石田:はい。もともとは浅島先生や福田裕穂先生(本学理学部教授)が作成された教科書で、今度第四版が出ると伺っております(本インタビュー後、『理系総合のための生命科学』の第四版が、三月七日に刊行された)。

浅島:そうですか。三年に一回ずつ改訂してきました。そこで良かったことは、全学の生命科学の先生方と共同作業を通じてお話ができたということです。教養学部と他の専門学部との連携ができ、教養学部に対する全学的なシンパシーが増えました。石田学部長のお話では、まだ今でも続いているということですね。その最初の流れを教養学部が作ったということです。そのきっかけは、ゆとり教育に対して教養教育をどうするかという教養教育の質の保障にあったのです。

そして、法人化を迎えます。駒場寮の明け渡しが二〇〇一年、法人化が二〇〇四年です。教養学部にとってみると劇的な変化を迎えたときに、学部長として何を考えたかというと、一つは、大学にとって教養教育は本当に必要なものだということでした。なぜ必要かというと、高校から大学に入ってきた学生たちが、物事を自分で考えて自分で判断する力を養い、それを育くむ場が教養学部だからです。それはいつの時代も変わらず、常に重要なものだと思っています。

二〇〇四年、旧制第一高等学校が創立百三十周年を迎えますが、そのときの同窓会長は元日銀総裁の三重野康さんでした。私は事務部長らと一緒に赤坂の一高同窓会の事務所に何度も行って、キャンパス内の同窓会館を教養学部に寄付してもらいたいとお願いしました。そのときに「教養学部の教育理念は何ですか」と問われて、「我々は、リベラルアーツ&サイエンスという形で旧制第一高等学校の精神を受け継いでいます」と言ったら拍手があって、「分かりました、それなら全面的に協力しましょう」と、三重野さんが言ってくれたんです。

石田:なるほど。

浅島:石田先生はいろんな意味で教養教育とは何か、教養とは何かというようなことをお考えになっているみたいですけれど、私はあのとき、リベラルアーツ&サイエンスと言いました。サイエンスが付いていました。一高同窓会とは、そのときにいろんな意味で友好関係ができまして、九〇〇番教室の近くに「第一高等学校ここにありき」の碑があります。それから、矢内原門を入ったところに、「新墾(にひはり)の碑」があります。教養学部にも多額の寄附をしてくださって、それが卒業式・学位記授与式の際の一高記念賞表彰の資金になりました。

石田:(学部長室にある置時計を指して)それが、一高賞の記念品です。

浅島:そうですか。それはいいことです。今でもそれが続けられている。

石田:ここに一高があって、その後に東京大学教養学部があるということは、駒場の学生はしっかりと認識しています。
浅島:そして、教養学部の先生方の積年の夢だったファカルティハウス、これについては食事、会議、宿泊の場などいくつかの注文があったのですが、加藤道夫先生たちがその注文を見事にみたす設計をしてくれました。それから、私がちょうど学部長に就任したときには、学部長室が一〇一号館からこのアドミニストレーション棟(二〇〇三年竣工)に移りました。

石田:では、浅島先生がこの学部長室の初代の学部長でいらっしゃる訳ですね。

浅島:このとき、図書課を除く事務部4課(総務課、経理課、教務課、学生課)が統合されました。それまでは学部長室、総務課、経理課は一〇一号館に、教務課は美術博物館に、学生課は一〇五号館にありました。アドミニストレーション棟内の配置については、利便性やサービスの向上に配慮しました。

それから、研究については、21世紀COEプログラムがありました。総合文化研究科では、「融合科学創生ステーション」(二〇〇二年採択、拠点長は浅島誠先生)、「共生のための国際哲学交流センター(UTCP)」(二〇〇二年採択、拠点長は小林康夫先生)、そして「心とことば─進化認知科学的展開」(二〇〇三年採択、拠点長は長谷川寿一先生)の三つが採択されました。一つの研究科で三つもCOEが採択されたことによって、駒場の幅広さと底の深さを示すことができたのではないかと思います。

ほかに、東京大学の「教養教育」に対する取り組みについては、二〇〇三年に文部科学省の「特色ある大学教育支援プログラムCOL(Center of Learning)」に採択されました。これについては、一大学から一件しか申請できないという制約条件があったため、東京大学は教養学部に任せることになったのです。

それから、二〇〇四年の法人化を機に、第一回の総合文化研究科・教養学部運営諮問会議(運営諮問委員は、五十音順に安藤忠雄、緒方貞子、草原克蒙、立花隆、中村桂子、蓮實重彥、森稔の七氏)を初めて開きます。そのときの諮問事項は、「教養教育のありかた」と「法人化後の運営」についてでした。

ほかにいくつかあるのですが、法人化後の大きな変化として、労働安全衛生法の適用対象となったことが挙げられます。それゆえ、消防法が適用され、廊下に荷物を置けなくなっただけでなく、先輩たちが残した多量の試薬や中身が不明の溶液の処理などに多大な費用と時間をかけました。駒場ではこれを徹底的にやりました。さらに、安全対策として、ラクロス場に安全防護ネットを作りました。

また、先ほどファカルティハウスの話をしましたが、他にも進学相談室、博物館、講義室、保健センターを整備し、アドバンス・リサーチラボ棟や十八号館を建設するなど、キャンパスの整備に力を入れました。

文化について言いますと、駒場には古くからオルガン委員会とピアノ委員会があります。九〇〇番教室のオルガンは、森ビルの森泰吉郎氏から寄附されたものです。私が学部長の時に、ご子息の森稔氏にその修理をお願いして、演奏会を開きました。そのときには、森稔さんのご夫妻も招いて、ヘルマン・ゴチェフスキ先生(教養学部教授)が演奏したと記憶しています。その後、松尾楽器商会の松尾治樹社長にお願いして、スタインウェイのピアノを音楽実習室に納入していただきました。

駒場で重要なのは、一年生に対してハードとしての環境とソフトとしての場を与えることです。ハードは建物や施設であり、また駒場では木を一本切るにしても環境委員会がちゃんと精査してその是非を判断しています。それから、場というのは、これは人だと私は思います。駒場には本当に優れた学生がいるんですよ。これが宝です。学生をどう伸ばすか。先生方が忙しいのは分かりますが、人を育てるというのがやっぱり大学の使命です。この人を育てる、良い環境と場を与えて学生を伸ばすということをぜひ今後も続けてほしいと思っております。

石田:古田先生と浅島先生からお話を伺って、重複するところはございますけれども、相互補完的なお話となったと思います。特に印象に残りましたのは、駒場が九一年の大綱化、九九年の重点化、ゆとり教育世代の進学、それから〇四年法人化という十数年の流れの中で、常に教養学部としてのアイデンティティというか、教養教育とはいったい何なのかということについて問い続け、それも自ら問うだけではなくて、運営諮問委員会など設置して、外部からも教養教育のあるべき姿についてもご意見を伺ったりして、繰り返しアイデンティティを自覚的に探り続けてきた、ということが非常によく分かりました。

それから学生に感動と喜びを感じさせることが大切だということを伺って私が連想したのは、二〇一六年ノーベル生理学・医学賞を受賞された本学部基礎科学科ご出身の大隅良典先生が色紙に書かれる「観る楽しさ、知る喜び、解く歓び」という言葉でした。これこそサイエンスの喜びの核心であると思いますが、学生にはまさにそれをこの駒場キャンパスで味わってもらいたいし、その喜びを何よりも大切にすることこそ教養学部の伝統ではないかと感じました。

浅島:ほかに例えば環境を守るということで一つ言いますと、一二郎池の下にトンネルを通したいという話もあったのですが、駒場の環境を守るために諦めてもらいました。

石田:なるほど。それで、これだけの緑がいまだに残っているんですね。上空から俯瞰すると駒場キャンパスは緑が多く残っていますね。

浅島:いいですよね。

石田:浅島先生は本当にいろいろなことを任期中になされたわけですね。

浅島:いやいや、これはね、当時、教養学部は学部長室と教授会で共同作業したんです。

石田:研究面については、今、運営費交付金に依存するのではなく、財源を多様化しながら研究を進めなさいということが全学的に盛んに言われるわけですが、そのあたりについてはいかがでしょうか。

浅島:これは全国の国立大学が悩んでいることです。運営費交付金が減少する中で、研究の成果を出せと言われています。外部資金がそんなに増えているわけじゃありません。寄附のマインドもあまりありません。解決策があるかというと、なかなか難しいです。特に教養学部は、産業界と結び付いているわけじゃなくて、むしろそれこそアカデミック・フリーダムを基本としているところがあって、企業の目的のために研究するというのは、あまり好まないと思います。ただし、自分の成果というものが産業界でも役立つと思うならば、それは産業界と組むことも私はいいと思う。URA(University Research Administrator。研究活動を効果的・効率的に進めていくために、プロジェクトの企画・運営、知的財産の管理・運用等の研究支援業務を行う人材のこと)とか、TLO(Technology Licensing Organization。大学の研究者の研究成果を特許化し、それを企業へ技術移転する法人のこと)とか、先生方が何をしているかをウォッチして、そして、いいものがあれば、それに市場価値を見出すというような仕組みも考えていいんじゃないかな。ただし、慎重にやったほうがいいと思います。とはいえ文系と違って、理系の大半はとにかくお金がないと研究できないんですよ。ですので、本当は教養学部に研究基金みたいなものを立ち上げてほしいです。難しいのはよくわかっていますが。

石田:今、文科省の卓越大学院構想があります。東大の中でも、全学的に調整をしながら、いくつかの部局が協力しながら構想をたてようという動きがあります。やはり若い人が研究を志すような、そういうところを強化していかないと次の世代の研究者が育ちません。
浅島:そうなんですよ。大学院博士課程の進学者が減っているのは日本だけ。ほかの国は、中国、アメリカ、ヨーロッパ、イギリス、全部増えています。それから、四十歳以下の若手研究者の割合を見ると、日本は25%。ドイツは55%。中国は45%。ドイツとか中国あたりは、政策的に次の世代を育成しているんです。日本はあまりにも博士課程に進まないし、四十歳以下の研究者がいない。ジリ貧です。

石田:駒場の教授会構成員を誕生日順に並べますと、中央値は五十五歳です。五十五から六十五に教授会構成員の半分がいます。
浅島:これをやっぱりピラミッド型か寸胴型にしないと。今は逆三角形になっているから、人員構成が非常に危ないですね。特に四十歳代の人たちを見ると年長者の定年延長とか出てきたり、それから、任期制があったりね。いろんな意味で、三十歳代から四十歳代の人たちにとっては厳しい時代なんですよ。若手人材の育成と研究環境の整備は重要です。

石田:ですから、現在の研究推進型の部局構想においては、将来有望な若手の研究者、特に四十歳以下の若手研究者の採用を積極的に進めるという、そういう方向で今何とか研究科として適正な年齢構成を早く回復することを考えています。
浅島:それはほんとうに重要なんだけれども、ポストが空かないことには難しい。ところで、この機会に『教養学部報』のバックナンバーを調べてみたのですが、教養学部の歴史は必ずしもよくわからないですね。教養学部がどのように、どうして変わったか、とか、何をしているのか、ということがわかるようにしておいた方が良いと思います。

石田:おっしゃる通り、きちんと形に残しておきたいと思います。本日は長時間にわたり、たいへんありがとうございました。

インタビューを終えて

(石田 淳)
今回、二〇〇一年から二〇〇五年までを在任期間とした二人の元学部長(文系の古田元夫先生と理系の浅島誠先生)からお話を伺った。この機にあらためて痛感したのは以下のことである。教養学部は、そのロゴが象徴するように三層構造を持つがゆえに、「大学設置基準の大綱化」、「大学院重点化」、「国立大学法人化」など、特定の層の再編、あるいは層の間の関係の再編のたびに大きく揺さぶられ、そしてその都度、学部のアイデンティティの問い直しを迫られることになった。その一方で、三層の各層ごとに特定された職務を持つ構成員から成る教養学部にとって、グローバル化や産学連携など、時代によって重点の移りかわる社会的要請に応じてすばやくその人員配置を調整することは容易ならざる課題である。三層構造を持つ教養学部にとって、この悩みは深い。

プロフィール

古田元夫(ふるた もとお)
東京大学名誉教授。専門はベトナム現代史。近著に『ベトナムの基礎知識』(めこん、二〇一七)、『増補新装版 ベトナムの世界史 中華世界から東南アジア世界へ』(東京大学出版会、二〇一五)など。一九九五年に初版が刊行された『ベトナムの世界史』は、ベトナム語にも訳されている。一九七八年に東京大学教養学部助手、八三年助教授、九五年教授、二〇〇一年から二〇〇三年に総合文化研究科長・教養学部長、二〇〇九年に東京大学附属図書館長、二〇一五年に定年退職。一九九二年にアジア経済研究所発展途上国研究奨励賞、二〇〇三年ベトナム国家大学ハノイ校名誉博士号、二〇一三年ベトナム社会主義共和国友好勲章。二〇一六年から、ハノイ国家大学の傘下にある日越大学の初代学長を務めている。

浅島誠(あさしま まこと)
東京大学名誉教授。専門は発生生物学。一九八九年、胚発生における分化誘導物質であるアクチビンを世界で初めて同定、再生医療への道を切り開いた。近著に、『生物の「安定」と「不安定」生命のダイナミクスを探る』(NHK出版、二〇一六)、『爆笑問題のニッポンの教養 生命のかたちお見せします』(講談社、二〇〇七)など。一九九三年に東京大学教養学部教授、二〇〇三年から二〇〇五年に総合文化研究科長・教養学部長、二〇〇七年に東京大学退職、二〇〇七年から〇八年に東京大学理事・副学長。二〇一六年、東京理科大学副学長に就任。一九九四年、ドイツ政府よりフィリップ・フォン・ジーボルト賞、二〇〇一年紫綬褒章、恩賜賞・日本学士院賞、二〇〇八年文化功労者、二〇一七年瑞宝重光章。

石田淳(いしだ あつし)
東京大学大学院総合文化研究科教授。二〇一七年より研究科長・教養学部長。専門は国際政治学。近著に『国際政治学』(共著。有斐閣、二〇一三年)など。

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