HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報606号(2019年1月 8日)

教養学部報

第606号 外部公開

駒場をあとに「小さな生き物からの「天啓」と研究室の仲間たち」

嶋田正和

一九八五年春に三十一歳で東大教養学部に助手で赴任したとき、駒場の牧歌的な気風は妙に性に合っていて、時間は悠々と無限に流れているようだった。いま六十五歳を迎え、定年で駒場を去る。ここ数年は光陰矢の如しを痛感しているが、これまでの歩みを思い起こすと、幸運に恵まれた人生だといえる。
私は昆虫を対象に生態学を研究してきた。新大陸産マメゾウムシ類とマメ科植物の系統進化、マメゾウムシ類とその寄生蜂の実験系の動態解析など、ほとんど数ミリ以下の小さな昆虫ばかり(最大でも七〜八ミリ程度)を見続けてきた。マニアは大型美麗昆虫を愛でる人が多いが、実験室に取り込んで年中データが取れる小さな材料は、研究するには圧倒的に有利である。この方針に従い、昆虫だけでなくカエルや微生物の珪藻、細胞性粘菌の実験系を扱う院生達もやって来て、小さな生き物の実験系はさらに拡張された。それらの生き物の振る舞いを数理モデルや数値シミュレーションで解析する進化動態の研究もできた。
一九八九年に最初の卒業研究生を迎えて以来、指導し共同研究してきた院生達やポスドク・特任研究員は歴代で五十名以上、博士学位取得者は二十名となった。彼らはそれぞれに個性に富み、誠実で優秀だった。彼らは私の人生における大きな財産であり、私の大事な仲間たちである。大学教授はつくづく幸運な職業だと思う。生物の進化の研究は何かの役には立たず医療や産業にも直結しない筆頭かもしれない。それでも、嶋田研の統一テーマ「生物集団の生態と進化:野外調査─実験系─モデル解析の連携」という基礎科学の面白さに惹かれて配属を希望する学生が毎年存在し続けた。この地球で多くの生物種が共存する原理を解明するため、彼らと一緒に一つ一つの具体的な研究テーマを相談し計画し、形作ってきた。
大学受験の頃、英文法の参考書に「大学教授と乞食は暇という点では同じようなものだ。」という例文があった。小さい頃から生き物が好きだった私は大学で生態学者を目指していて、これを「天啓」と捉えた。楽しい趣味のような人生を送れるならば、「暇な大学教授」はどんなに素晴らしいことだろう。─実際に大学教授になってみたら、暇な趣味のような学究生活ではなかったが...。
私が生態学者になったのは、警察官だった父親と無関係ではない。私たち家族は福井県内の警察官舎を転々としたが、其処此処で出合った生き物の記憶は今でも蘇る。福井市大手の福井城址近くの官舎では、雨の日になると胴体が丸くて脚が異様に細長い幽霊蜘蛛のオトントン(兄弟で命名、和名ヒトハリザトウムシ)が現れ、大騒ぎした。福井市笏谷町の官舎は、春先には珍しいギフチョウも出没する足羽山の麓の谷に抱かれていた。夏休みになると、兄弟は朝食も早々に網と虫かごを携えて山に入り、カブトムシやクワガタ、タマムシを喜々として捉えた。白山からの伏流水が豊富な山合の大野市では、繁殖期になると婚姻色で体が赤く染まり触れると棘が痛いイトヨ、腹の赤い文様が不気味なアカハライモリ、口が吸盤のような円口類ヤツメウナギなどを捕らえては飽かず眺めた。そのような環境が私を生態学へと導いてくれたのだから、厳し過ぎて煙たかった父からは、実は大きな贈り物をもらったことになる。
中学・高校と進むにつれて、三国湊の防波堤まで足を延ばし、クロダイ、シロギス、サヨリ、アイナメ、ホウボウなどを釣った。「防波堤にはなぜこんなに多様な種が生息するのか?」と常に思っていたが、これは二十世紀後半に米国生態学界を主導したG. E.ハッチンソンの問題設定と同一だった。いつしか、なるべくして生態学者の道を歩み始めていたように思う。
高校では釣りの他に剣道にも熱中し過ぎて、当然、浪人したが、合格した京大理学部の建物には足が向かず、またも道場で剣道に励む毎日だった。精進の甲斐あってインカレに個人・団体で三回出場したことで思い残すことはないと、四年生十一月の引退を期にあっさり竹刀を置いた。
学部三年の頃、『動物の人口論』(内田俊郎、NHKブックス)に感化されていたので、アズキゾウムシの実験個体群を卒業研究として決め、動物生態学講座に出向いた。案の定、学業を疎かにしていたために、村上興正先生からは「お前は何を考えているんや!」とこっぴどく叱られた。めげずに「一年留年して五年生で卒業研究をやりたい」と希望を伝えたところ、村上先生は私を連れて農学部に赴き、個体群動態の研究では国際的に著名な内田俊郎教授にアズキゾウムシの実験生態学の指導を依頼して下さった。水を得た魚のように実験に励んだものの、残念なことに指導を受けた三か月後の三月に内田先生は定年で京大を去られたのだった。
その一年後に突然、内田先生から手紙が届く。当時、設置されたばかりの筑波大学に、長年米国で成果を挙げて来られた藤井宏一先生(内田先生の弟子)が助教授で赴任されるという朗報だった。二度目の「天啓」である。大学紛争の名残がくすぶり筑波大学法案反対の声の中で、藤井先生の帰国は他言無用と手紙で厳命されていたので、周囲には知らせずにそっと筑波大学大学院に進学した。藤井研での七年間、統計学と生物群集の連立微分方程式の数理モデルとその数値解析を物にできたのは大きな幸運だった。
博士課程五年の晩秋、博士論文を完成した頃に、東大教養学部基礎科学科第二の助手公募が出た。「化学・生物・地学分野をもとに計算機を使った研究を展開している方」との応募資格は私にこそ向いていると確信した。人生三度目の「天啓」を得たのである。そして、生態学分野の松本忠夫先生や生物学教室の先生方のご支援もあって、幸いにも採用された。
一九九二年に助教授(改組後に准教授)、二〇〇四年教授になった。おそらく助手から教授まで駒場を一度も離れることなく昇格した教員は極めて珍しいと思う。他へは出なかった理由は、新築の十五号館に農林水産大臣特別許可の輸入禁止品昆虫を飼育できる特殊実験室を二つ(実験個体群用と野外昆虫用)設けることができ、完璧な研究環境が整ったからである。とは言え、のんびり屋だった私の歩みはのろかったと思うが、先輩の先生方は私にいつも目をかけて下さった。また、同僚の教員や研究者達は優れた資質で素晴らしい刺激を私に与え、さらに長期出張したインペリアルカレッジで仲良くなった研究者たちとはその後も交流が続いている。学術支援職員として私の実験を長きにわたり支えて下さった長瀬泰子さんは貴重な存在だ。駒場の三十三年間はつくづく人に恵まれたと感謝している。
最後に、嶋田研で育ち、私の良き共同研究者としてともに歩んで来た皆さんには、日々精進していれば必ずどこかで幸運に恵まれ新たな世界に羽ばたける時がきっと来ることを伝えたい。

(広域システム科学/生物)

第606号一覧へ戻る  教養学部報TOPへ戻る

無断での転載、転用、複写を禁じます。

総合情報