HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報607号(2019年2月 1日)

教養学部報

第607号 外部公開

駒場をあとに「コマバ、残響と残影」

石田英敬

井の頭線ホームを降りて正門へ歩き出すと様々な音が聞こえてくる。日により時によりことなる混ざり合った背景音だが、ときに自分はどの時間の方へ向かおうとしているのかと思うことがある。
一九七二年に入ったときは学生運動の最後の残り火がまだ燠のように燻っていた頃でコマバは無期限ストライキ中だった。クラスオリ期間は川端康成の自死と重なって、高名な文芸評論家でもあったクラス担任の教授はメディア対応に追われている様子だった。皆が川端の死を高校時代に経験した三島由紀夫の自決に重ねて連想していた。連合赤軍事件のテレビニュースを見ながら受験し学生運動の崩壊過程の只中で入学した世代である。その崩壊は最悪の内ゲバ時代として到来した。『教養学部の三十年1949-1979』の「年表」には、一九七四年一・二四の日付で私たちの事件が記されている─「内ゲバで教養学部生二名死亡」。そのとき生き残ったのが私である。
二十年をへて一九九二年に駒場にもどってきた。八号館の表象の部屋で蓮實重彦先生に最初に言われたのは、「残念ならが祝福してお迎えできる状況にはありませぬ」という蓮實語だった。「閉ざされた塔から開かれた濃密さへ」というオクシモロンが改革の合い言葉であることもそのとき知った。渡邊守章先生には「革命委員会に入ってもらう」とまるで名誉の召集のように告げられ「将来計画第一小委」のメンバーとなった。概算御文(おふみ)書きは容易に習熟した。教養前期カリキュラム大改訂や言語情報科学専攻の設立は既定だったが、その実質化には幾分かの貢献はできたと思う。
九三年には言語情報科学専攻が発足した。同じ年に新カリキュラムに移行し、新設された総合科目では「記号論」を担当した。爾来ほぼ一貫してこの教科を講じた。必ずしも専門ではなかったが、石のうえにも三年、いまでは新記号論を提唱するまでになった。新専攻では東大として初めて社会人入試を導入、土曜閉庁の例外特例で土曜日にも自主管理で授業を行うことになった。その後ずっと土曜日に「テレビゼミ」を続けたのは、このときの社会との約束を果たすためだ。言語態研究と社会とが出会うメディア研究を扱った。じっさいゼミには多くの社会人がやってきて大学と社会との交流が積み上がった。
九六年には市村宗武学部長を補佐するため学部長補佐となった。とつぜん学部長に選出された先生は大変苦労されていた。寮問題が一気に動き、大学紛争以来の危機で緊迫していた。一〇一号館にあった学部長室に常駐し特別委の面々と連夜の相談で昏いうちに帰宅できないこともしばしばだった。建物が包囲されたときには、地下通路から女性職員たちを脱出させ籠城を覚悟したこともあった。永野三郎、生井澤寛、小寺彰各教授はすでに他界されたが、大学の自治とは何かを限界まで問うたあの日々を私は忘れない。駒場の教師たちだからこそやり抜くことができたことだ。
九八年秋にフランスでの在外研究から帰国すると、二〇〇〇年の情報学環設立にいたる準備プロセスに加わった。市村先生が副学長として検討委員会の座長、蓮實重彦総長のもと駒場として初めての全学的取り組みへの参画ということだった。玉井哲雄、小林康夫、私が駒場からの委員。流動教員として、文系からも小林か石田かどちらかを出してもらわなければというので私が行くことになった。
ここが運命の分岐点で、最初は三年から五年で戻る予定だったが、二〇〇四年の法人化の際に情報理工研究科の流動引き上げ、社会情報研究所との合併などで情報学環は五年にも満たぬうちに空中分解の危機に直面した。駒場の支持をつなぎ止め、濱田純一初代学環長を初代教務委員長として支えるのが私の役回りとなった。以後は駒場のことではないので省略するが、小部局の悲哀を経験しつつも設立一〇周年には濱田先生が総長、私は学環長になっていた。よちよち歩きの小部局から総長を出し全学的ロールプレイをするのは容易ではない。三・一一東日本大震災もあった。新図書館計画の責任者として孤立無援の日々を過ごしたこともあった。
こんなふうに書き連ねるとお前は学内行政ばかりしてきたのかととられるかもしれない。しかし、多くの大学人がそうであったように、私も私なりに一九九〇年代以降の大学の激動期を大学教師として生きたのだ。
駒場のクラスをいつからか「ひよこクラス」と呼ぶようになった。駒場教師の喜びはひよこたちと毎週会うことができることだ。毎年のレポートを見ていればわかるが、確実に才能のある若者たちがわき水のように入ってくる。そのなかからは作家になったやつもいれば、思想家となった者もいる。社会人入試で入って著名な会社の役員になった者もいる。こんなに才能が溢れた場所で教えている駒場の教師は不平を言ってはいけない。
かつてテーマ講義にお招きした大江健三郎氏は、キャンパスにつくやスズカケの巨木に手を当てて樹木の声が聞こえると言った。わたしも駒場にもどってきたときには、昔の友人たち、同僚たちを想い出し、風にそよぐ木々の唄を聞き、鳥たちのさえずりに耳を澄ませていたい。

(情報学環・学際情報学府)

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