HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報609号(2019年5月 8日)

教養学部報

第609号 外部公開

「理性」と「神秘」

山本芳久

拙著『トマス・アクィナス 理性と神秘』(岩波新書、二〇一七年)が、昨年十一月に、第四十回サントリー学芸賞(思想・歴史部門)を受賞した。我が国においては、西洋中世の哲学(スコラ哲学)は、一部の専門家を除けば、いまだ馴染みのない分野に留まっている。「広辞苑」で、「スコラ的」という言葉を引くと、「議論が煩瑣で無用なこと」という説明が載っていたりすることのなかに、「スコラ哲学」が我が国の文化全般において置かれている悲しい状況が象徴されているとも言える。そうであるからこそ、スコラ哲学の代表者であるトマス・アクィナス(一二二五頃─一二七四)を正面から取り扱った書物の受賞によって、「スコラ哲学」という分野そのものがより多くの方々の興味関心を惹くきっかけが与えられたことに、大きな喜びを感じている。
トマス哲学の根本精神は、「調停の精神」である。「理性と神秘」という今回の著作のタイトルも、トマスにおける「調停の精神」を一つの側面から捉え直したものとも言える。「理性」と、理性を超えた神の「神秘」。この二つのうちのどちらか一つのみを認めて他を捨象するのではなく、緊張関係にあるがままの「理性」と「神秘」の双方を同時に認めることによって、「理性」は、自らの力のみでは達成できないより開かれた知の可能性を与えられ、「神秘」もまた単に盲目的に信じられるのみではなく、「理性」によって理解されることによって人間の心の奥深くへと根付いていくことができるようになる。
トマスはキリスト教の教え(神秘)を理性によって証明しようとしたと説明されることがあるが、それは違う。理性によっては証明することも反証することもできない神の「神秘」─それは「聖書」において表現されている─との出会いによって、理性の働きが活性化され、理性の力のみでは獲得することのできない豊かな洞察が獲得されていった成果を活写したのがトマスのテクストだ。「理性」と「神秘」とはこうした動的な関係にあり、そして、トマスにおける「調停の精神」とは、静的(スタティック)で固定化された「調停」に安住しようとするものではなく、常に動的(ダイナミック)な仕方で異質なものを統合していこうとする探求の精神なのである。理性の限界を認めつつも、安易に理性の役割を否定せずに、理性の果たしうる積極的な働きを丁寧に果たしながら、この世界やそこに棲まう人間についての肯定的なヴィジョンを開示していくこと。そこにトマス哲学の大きな魅力がある。
トマスの時代は、イスラーム世界を経由して、キリスト教誕生以前に古代ギリシアにおいて形成されたアリストテレスの哲学─「異教世界」の哲学─がラテン・キリスト教世界に導入され、それをどう受け止めるべきかをめぐって、大きな物議が醸された時代であった。そうした状況のなかで、トマスは、伝統的なキリスト教的世界観との緊張関係を含むアリストテレスのテクスト群を避けることなく、むしろそれと正面から対峙し、綿密に解釈することを通じて、アリストテレスの哲学がキリスト教と矛盾するどころか、むしろ、キリスト教的な神理解や人間理解に新生面を切り開くための大きな手がかりを与えるものであることを明らかにした。
それは、単なるつじつま合わせではない。トマスは、アリストテレス解釈を刷新し、そのことを通じて、キリスト教神学そのものを刷新することができた。単なる中途半端な妥協ではなかったのである。異質なものと対峙することによって自らの力を奪われてしまうのではなく、むしろ、異質なものとの対峙によって生まれてくる緊張のエネルギーを自らの力へと転換し、新たな視野を切り開くことに成功したのである。
現代においてトマスを研究するとは、こうした意味での「調停の精神」に学ぶということではないだろうか。トマスのテクストのみを追い求め、トマス自身が追い求めていたものを追い求めることを怠ってしまっては、真にトマスに学ぶとは言えないだろう。
トマスの時代にはいまだ顕在化していなかった「ニヒリズム」や「無神論」、そして科学技術の飛躍的な発展による人間観や世界観の根本的な変容に我々は直面している。ユダヤ教やイスラム教についても、当時のキリスト教世界においては望むべくもなかったほどの豊かな知見を現代の我々は有している。トマスが現代に生きていたならば、こういった現代ならではの知的動向に眼を閉ざして「キリスト教神学」のなかに閉じこもったりすることは決してないだろう。伝統的なキリスト教理解とは緊張関係のうちにある他宗教や他の世界観を蔑ろにするどころか、むしろ、それらと正面から対峙する「調停の精神」を発揮すること間違いない。今回の受賞作では、論述をそこまで進めることはかなわなかったが、トマスの知的精神を受け継ぎつつも、トマスの地平を超えて、そうした探求を続けていきたいと思っている。

(国際社会科学/哲学・科学史)

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