HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報611号(2019年7月 1日)

教養学部報

第611号 外部公開

<本の棚>関谷雄一・高倉浩樹(編)『震災復興の公共人類学 ─福島原発事故被災者と津波被災者との協働』

森山 工

文化人類学者は通常、何らかのかたちで名指された人々のもとに赴き、そこでフィールドワークに従事します。その名指されは、民族名・国民名(何々人)であることもあれば、村落名(何々村の人々)であることもあり、あるいはより広範な地域名(何々地域の人々)であることもあります。これは、調査対象となる人々を確定するという作業上、必要な手続きであるように思えます。
しかしながら、名前、とりわけ固有名というものは、それによって指示される対象を実体化して見せるという顕著な作用を発揮します。そうした固有名をとっかかりにしてフィールドワークに臨むことで、ある暗黙裡の思いなしが導かれることがあります。調査対象となる人々が、一枚岩的で均質な対象物であるという思いなしです。
たとえば、ギアツという著名なアメリカ合衆国の文化人類学者は、かつて「バリ島の人々は同一の信仰と世界観をもっている」という趣旨のことを述べました。しかし、よく考えてみれば、このようなことはそれ自体が証明不可能ではないでしょうか。にもかかわらず、このような思いなしが調査対象者の確定に潜むことで、「バリ島の人々」が容易に均質なマスとして実体化されてしまうのです。
さて、本書においては、たとえば「福島の人々」という固有名がとっかかりとして設定されています。あるいはそれは、もっと微視的に見たときの市町村名を用いたものであることもあります。「福島県富岡町の人々」とか「つくば市に避難してきた人々」とかといった具合です。しかしながら、本書の大きな特徴の一つは、上述したような固有名による対象の実体化や一般化の作用を見ることができないということです。「震災」にしろ「原発事故」にしろ、それ自体は一大事件であり、一大カタストロフィであるわけで、そういうものとして個別化して(マスとして)把握することができるかもしれません。しかしながら、微細に見るならば、それはさまざまな出来事の連鎖と集積の上に設定されるマスであるはずです。大切なのは、そうした出来事の一つひとつをときほぐしつつ、出来事が連鎖する関係であるとか、出来事が集積する構造であるとかを理解することではないでしょうか。違う言い方をするなら、最初から(とっかかりとして)均質な実体を対象として設定するのではなく、それ自体は断片的な事象に目を凝らし、そうした断片の連鎖や集積のあり方を読み解くことではないでしょうか。
本書の優れた点は、こうした断片(それは、ある特定の個人の災害後のライフコースであったり、復興に向けた個別の取り組みであったりします)に丁寧に向き合い、断片が織りなす実践の諸相を緻密に描き出していることにあります。ですから、ここに「被災者」として一般化される何らかの実体像を予想する読者は、本書に端的に裏切られることになるでしょう。
もう一つ考えておきたいのは、このように対象を断片として見なすことによって、調査者である文化人類学者自身も一枚岩的で均質な個体となるのではなく、その都度の断片性を呈示するようになることです。そして本書の特色もここにあります。というのも、本書では、このような断片としての調査者が、やはり断片としての調査対象者と密接なやりとりを行い、それによって、個々の断片が描く軌跡が鮮明に活写されているからです。それはまさしく、本書の副題にあるように「協働」であるといえましょう。本書に寄稿されたいくつかの論考が、調査者と調査対象者との共著というかたちをとっているのも、このことを如実に物語っています。
「公共人類学」とは、公共的な射程をもつ事象に当事者がいかに対応し、それをいかに意味づけ、それを通じていかに活動の場を構築するのかを研究する学術分野でありましょう。しかし、それにとどまらず、研究の成果を狭い研究者サークルのなかだけで流通させるのではなく、まさしく公共のものとして、積極的に外部に開いてゆく営みでもあるはずです。この二重の意味で、本書は「公共人類学」の実践にほかなりません。それが、調査対象者との「協働」に裏打ちされているということは、まさしく本書の真骨頂といえることなのではないでしょうか。

(地域文化研究/フランス語・イタリア語)

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