HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報611号(2019年7月 1日)

教養学部報

第611号 外部公開

<時に沿って> 酵母のはなし

小田有沙

今年の四月に広域科学専攻生命環境科学系の助教として着任しました。私は生物学、特に酵母の研究をしています。酵母はお酒やパンを作るのに使われ、一般にも馴染み深いいきものです。人類は微生物の存在を知るずっと前から、酵母のお世話になってきました。
食べて美味しい、飲んで愉しい、そんな酵母ですが、生物学の世界では扱いやすい細胞として重宝されています。ヒトと同じ真核生物に分類され、基本の生命システムが進化的にも哺乳類と似ている点に着目した研究者たちは酵母を細胞の「モデル」として使い始めます。実験マウスよりよっぽど安く飼えますし、細胞内で起こる現象の研究にはもってこいなのです。そんなわけで私は、大学で酵母は単細胞モデル生物だと習いましたし、研究室に配属されて、同じくモデル生物として有名なショウジョウバエや酵母を扱い始めた時には、それらを「高等動物(ヒト)の研究のための道具」に過ぎないと無意識のうちに思い込んでいました。今にして思えば、なんと思い上がったことでしょう。長くなるので詳細は割愛しますが、私はかつて酵母を、ただヒトと似た染色体を持つ便利な生物、と安易に考えて、遺伝子やなんかの研究をしていました。
扱いやすい代表格のように言われる酵母ですが、私は酵母の培養を幾度も失敗してきました。プロトコルどおりに培養しているつもりでも勉強不足だと思いがけない落とし穴にはまるものです。
今でもはっきり覚えている失敗の一つは、酵母の倍加時間について学んだばかりの時のことです。細胞が勢い良く増殖しているときは、分裂の時間は概ね一定です。例えば、ある細胞が約三時間で一回分裂するとして、二十四時間後に実験をしたければ、理論上八回分裂するので、欲しい細胞数の1/256の細胞を培地に薄めて植えれば、翌日には増殖して、期待数の細胞が得られます。ある金曜日、週明けの実験のために酵母を準備していました。でも、週末は遊びたい。普段は前の晩に仕込むところを三日後に細胞を十分量得たいと考えました。それならばいつもは1/250倍希釈のところ、二十四回分裂するなら1/15,000,000倍希釈だ、と、たっぷりの培地にほんの少しの細胞をセットし、楽しく週末を過ごしました。
計算上は、月曜には細胞が増えているはずでした。しかし実際は、細胞は全く増えませんでした。それを見た熟練の研究員さんは「コーボは寂しいと死んじゃうんだよ」と言いました。そんなことあるものか、人間の方がよっぽど寂しいと死ぬわ、と心の中で思いましたが、私の算数は酵母に裏切られたのです。その時は知らなかったのですが、細胞数が少ない時と多い時で酵母は驚くほど挙動が異なります。酵母は寂しくて死んだりはしませんが、仲間の存在密度によって、増殖様式が変わるらしいのです。
最近特に、栄養が少なく、限られたリソースの中で生きねばならない時、細胞密度が顕著に酵母のふるまいに影響することに気づきました。そんなわけで、今は、酵母が厳しい栄養条件へ適応する時の細胞集団の挙動に興味をもって研究しています。
酵母を扱い続けて十年近くになりますが、日々、実験をしていると、未だに酵母について知らないことだらけだと気づかされます。酵母を単に研究の道具として扱うのではなく、自然界で生き抜くその生き様をしっかりと見つめて、酵母の生態そのものに迫る面白い研究ができれば嬉しいです。

(生命環境科学/生物)

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